みんなの協力で無事に終了

 11月18日、日曜日「ほっと・コンサート」が無事に終わりました。つくば市の中心地にあるサイエンスインフォメーションセンターで、午後1時半からの開演でした。毎年水曜日に開催していたイベントでしたが、今年から若者の参加を期待して日曜日にしました。結果は、残念ながら学生さんの参加は少数でした。それでも80名定員の8割のお客様が参加。
第一部は朗読で、筑波大の学生さん男女が若々しい通る声と、シルバーエッジのおば様の年季の入った落ち着いた声が共鳴し合いとてもいい雰囲気でした。「平和の種」は、シベリア抑留生活をした父親のことをM・Yさんが、「ばってんネットワーク」に書いたものです。反核運動をしていると、「戦争は広島、長崎だけじゃない」と言われることがあります。全くその通りで、これからは戦争を知らない人たちが主役になる世の中、知ってもらいたいと思います。それとM・Yさんが、今、病の床にあるので少し元気を取り戻してほしいという気持ちもあり上演しました。おば様二人の朗読、なかなかよかった。「明日が来なかった子どもたち」は、学生さんとおば様、「少年と犬ー福島原発事故で置き去りされた犬とそれを想う少年の話」学生さん、「新しい勇気を持とう」これは故濱崎均先生の辞世の詩、は、朗読者全員出演の朗読、ほか。約半年かけて練習してきたものです。学生さんも授業の合間を見つけて練習に参加してくれました。
 第二部は女性コーラス「あんさんぶるCO CO]さんの美しい歌声で、重くなった気持ちを少し和らげる企画でした。このグループは、茨城県で活躍中のグループですが、気の毒に参加費ワンコインなので交通費しか払えず、ボランティアで参加してくれてます。ありがたいことです。曲は、私や知人のオリジナルと、インターネットで被災地を忘れないために歌ってくださいと呼びかけている作品など。小さなイベントでも場所取り、プログラムに載せる上演項目、出演者の依頼、チラシ、ポスターの作成。などプロセスは大きなイベントと同じ。運営スッタフは、できるところをそれぞれが実行します。最近は公的な会場を借りるにも、費用が必要です。やはり、企画に関わる者は、労力、時間、費用と負担は大きなものになります。結局、そんなことにめげて、イベントを断念することになります。
そんな悩みを抱えながら、「大人のしゃべり場主催」の「ほっと・コンサート」は六年目です。私以外は、被爆地、被災地(広範囲で考えれば茨城も入りますが)に関係ない、戦後生まれの人たちが頑張っているのです。
ほんとにすばらしい!、小さくてもこんなグループが全国に生まれると、「被爆、被曝、被災」への共感が生まれるのかもしれません。そして、最大の収穫は、筑波大の学生さんが再び、このプログラムを学内で公演する企画をしたいという
提案でした。早速、来月から準備にかかることに。参加者が多くともそこでおしまいということもあって、少なくともこうして、あとに繋がることもある。充実感のある一日でした。みなさん、ありがとう!

「ばってんネットワーク」15年目

 気がつけば、10月も中旬になりました。先月から「ばってんネットワーク、NO,14ー平和のメッセージを長崎から」の原稿整理と編集に追われています。宮崎に住む、嘗ての教え子とこの15年続けてきたもので、限りなく個人通信に近く大したものではありませんがよく15年も続いたと二人で正直驚いています。なぜ続いたかと言われると、常時30名くらいの資金援助をしてくれた人がいたこと、小さな情報冊子から思わぬ反響があり、やめられなくなったこと、そして一番の理由は、第一号の編集を自ら受けて発行した教え子のTさんが、癌で急死したことにあります。彼女は団塊の世代で、長崎の原爆投下には直接関係ありませんが、早世した理由に残留放射能があるのではないかという想いがあります。面倒なことは避けたい人が多い中、「私が編集します!」と手を挙げた姿が脳裏に刻まれていて、Tさんは、これを通じて何か言いたかったのだろうと、何人か抜けてしまい二人しか残らなかった状況で、とりあえず海外向けに発行することにしました。Tさんのことがあった年は発行できませんでしたので、15年目ですが、「ばってん〜」は14号です。
Tさん、天国から見ていてくれたかな!!
 事務局として私を支えた河野は、被爆して生涯闘病生活を送らねばならなかった彼女の姉上(「長崎の花嫁」ーYOU TUBE)への思いを、世間に知ってもらうべく文章に纏めました。このことが、この面白くもない活動に最後まで、またこれからも、熱心に取り組んでくれる理由だろうと思います。「核の問題は、誰でもが自分のこととして考え、行動してほしい」と、呼びかけてきましたが、結局は何らかの関係がなければ、他人事なのかもしれません。2008年2月23日のブログのコメントに毒柳さん=この人は高校の同級生が「厚顔無恥で本まで出版したがる〜」と私のことを批判していましたが、やはり、何かの強い動機がないと、他人に知らせようという行動にはでないのかもしれません。毒柳氏は、文章力もないくせに、日記だの本だのと恥を知れとの忠告だったのですが、下手でもなんでも「核は人間と共存できない」ことを知ってもらいたいわけです。(作品は、一応芥川賞作家の指導で仕上げ、編集者の目を通してありますので、毒柳氏の批判は、気になりません。)一方、同級生で、この15年間カンパをし続けたくれた大野さん、楢原さん、山田さん、谷さん、近藤さん、日本語教師の同僚、安田さん、勝岡さん、平和コンサートで出会った高橋氏、けい子さん、田中さん、「平和の鐘〜」での大山さん、松田さん幼馴染の岡田さん、そして、河野の同級生、宮崎南教会の関係者の方々、また、時々カンパをしてくださった皆様、皆様のお陰で、19カ国の人々に平和のメッセージを送ることができました。今年は和文版が今月、英文版が来月出来上がる予定です。皆様のお陰で、「長崎からの平和のメッセージ」を送ることができ、ある意味では、驚くほどの広がりを見せています。批判も含めて感謝でいっぱいです。これからは不定期に自力で
ささやかな「平和のメッセージ」を発行していくつもりです。ありがとうございました。

岩垂弘氏の出版記念会

8日、岩垂氏の出版記念会が高輪和彊館で開かれた。岩垂氏は、元朝日新聞記者で、リタイア後、退職金を注ぎ込んで「平和・協同ジャーナリスト基金」を創設され、官権からはなかなか評価されないジャーナリストの仕事を評価し支援していこうといういう活動に取り組んでおられます。この度は、昨年の秋出版された「ジャーナリストの現場からーもの書きをめざす人へ」という約500ページに及ぶ内容の濃い立派な著書の出版記念会でした。この方にしては遅い出版記念会でしたが、ご本人ではなく周囲の方々の企画でした。謙虚で穏やかな人柄が多くの人の信頼を集め、いつも錚々たる方々が、岩垂さんの周囲を固めています。この本は、ジャーナリストとして、どんな時でも現場主義を通し、「名もない人々のつぶやきを聞け」、記事のウラをとれなど、ジャーナリストとしての基本的なあり方が経験を通して書いてあり、若いジャーナリスト、もの書きをめざす人には、必読書です。

錚々たる方々がお集まりになった記念会で、私ごときに、スピーチの機会を与えてくださいました。高齢になって、時々的確な単語がでてこない状況で、ちょっと緊張しました。以下スピーチの一部。

「岩垂さんは、長野県出身の方なのにどうして、「広島、長崎、沖縄〜と平和問題を追い続けられるのだろう」という疑問がありましたが、この御本を拝読してその理由がわかりました。それは、広島出身の靉光画伯が義理のお父様でいらっしゃること。靉光画伯は、残念ながら1946年に他界されましたが、反戦、反骨の画家でメッセージの強い画風で、
共感していましたから、びっくりしました。(実は、2008年に出した本「いっしょうけんめい生きてきたと!」に手記を寄せた橋本和明画伯が惹かれたという画家だったので、調べていた)靉光画伯の養父母に当たられるお二人は、原爆の影響で戦後まもなく亡くなられたということで、(私が肉親を亡くした想いに共通するものをお持ちである)一般的には記者として広島、長崎は通過点になるはずなのが、今もなお拘って取材し世に問われていらっしゃるのだと知り、味方を得た気持ちになりました。
もう一つ、この本にお書きになってないことを、恐縮ですが私の経験からお話させていただきます。約20年前、原爆童話を書き、皆さんに読んでいただきたくご迷惑も顧みず、コンタクトのあった方々に送りました。その中に岩垂さんがいらっしゃいました。岩垂さんは、その本のことを、街の話題にして載せてくださいました。さすが大新聞、思わぬところから連絡があり、人、団体とのネットワークが出来ました。そしてその10年後、その童話の英訳本を出来たネットワークのお陰で、世界に配布することになり、その送り先のアドレスに「平和のメッセージを」というミニレターを届け続けて15年になります。小さな記事から世界へ大きな広がりを見せ、記事という無機質なもののウラに血の通った人々の繋がりが出来、お互いに元気と勇気をいただいて、今に至っています。まがりなりにも、平和活動が続けてこられたのは、岩垂さんのお陰です。ご本人には、自覚しておられないでしょうし、お手柄みたいなことは、お書きにならないのでしようが、ジャーナリストは真実を報道し人々を啓蒙するほかにも、こうした人々のつながりにも大きな役目があるのだということ、このことでどんなにたくさんの人が、勇気と元気をもらうことができるかということを、若い記者さんのためにも次のご著書でお書きください。「名もなき人々のつぶやきを聞いていただき」私のような経験をした人が、岩垂さんの周りにはたくさんいらっしゃるはずですから。これからもますますお元気でご健筆をお祈りいたします。
最後に、リタイヤ当日、帰路わざわざ車を止め、奥様にありがとうの花束をお買い求めになったシーンで、やはり完璧なジャーナリストだと、感動しました。(私は男女共同参画社会実現の活動もやっているので〜)これからは、お二人で世の中をリードしていただきますようお願いいたします。
本日は、おめでとうございました。(岩垂さま、当日、さん呼びで失礼致しました。緊張してお祝いと感謝の気持ちをあまりうまく話せませんでしたが、以上のような内容でした。)

長崎原爆忌

8月9日、ナガサキ原爆忌でした。朝早く家を出て、浅草の今戸にある日蓮宗名刹、深栄山長昌寺を訪ねました。
このお寺は、毎年「平和の鐘、一振り運動」に賛同して梵鐘を鳴らしてくださっています。時々ここのお坊様から、丁寧なお便りをいただき、一度お目にかかりたいと思っていました。昨年の地震で鐘楼が少し傾き、鐘を撞くのは危険だということでしたので、それでは本堂の鉦でと半ば強引に押しかけたのです。
ここのお寺は、もともと浅草寺の座主を務めておられた寂海法印が、のちに日寂と名を改め1321年に現在の地に長昌寺を、開山されたという由緒あるお寺です。この辺りのお寺には、「鐘淵沈鐘伝説」があり、昔水害でいくつかの梵鐘が鐘淵に沈んだと言われていて、その中一つを1720年に再録してつくられたのが、現在の銅鐘という。
東京の台東区というところにもかかわらず、思ったより広いスペースに本堂や、観音堂、鐘楼があり、落ち着いた雰囲気は、ほっとするものがあります。確かに鐘楼が少し傾いていて、屋根にはブルーシートが覆っていました。
海光院代様と奥様はじめ檀家の方々など10名ほどの人たちが歓迎してくださいました。鐘楼は10日から改修工事にかかるということでしたが、一つ撞くくらいなら大丈夫でしょうと、海光様自ら午前11時2分に一撞きしてくださり、その後、心に響く読経を耳にしながら、参加者の皆さんともどもヒロシマナガサキ、そしてフクシマの犠牲者の冥福を祈り、これからの世界の平和を祈願しました。そして、「平和の鐘、一振り」の意味を少しお話させていただきました。一振りは、原爆投下のたった10秒間で1945年末までに、広島、長崎の21万人以上の死者が出ることが決まったという、TVドキュメンタリーの報告を見て、その一瞬を体感することができれば、「核の恐怖」をみんなが共有することができるのでは?と思い、一振りにしたこと。2006年から海外にその旨、発信したこと、2007年からは国内にも発信し、じょじょに広がっていることなどを。鐘に拘らず、神社の太鼓、学校のチャイムなどなんでもOK.みんな、一つの音は、10秒より長いのですが、それほどの一瞬の破壊力と放射能をばらまく核は、絶対になくしていかねばとお伝えしました。そして、この運動の一番の目的は、「平和のために、一振りしてください」という勇気を持って行動する人を増やすこと。小さなことでも行動することが、自分の問題になるのですから。
このお寺に働きかけてくださった方は春山さんというシルバーエッジのおば様です。あなたのお陰で、素敵な長崎原爆忌を過ごせました。そしてこれから、あなたの勇気がますます人々を繋いでいってくれることでしょう。感謝!

ピースボート乗船、報告会

昨日、M氏のピースボート乗船報告会に参加しました。
約20カ国を3ヶ月半ほどで訪問したという報告の中で、一番印象に残ったのは、やはりチェルノブイリの今の様子でした。爆発事故から26年経っても、放射能との戦いは続いているといいます。原発事故で74の村が廃村になり荒果てていて、幼稚園では、椅子などが散らばり残されたお人形が埃まみれで横たわっているようすに、胸が痛みました。あの時原発事故処理にあたった28人全員が死亡。その遺体はモスクワまで運ばれ、鉛の棺に入ってるそうです。これは、何を意味するのでしょうか。当時、東京のNGOがこの処理にあたった
MR.Jを招いたことがありました。その時のご縁で、その後何度か便りを出しましたが、あるとき、受取人不明で戻ってきてしまいました。彼も、この鉛の棺ではなくとも、もしかしたらこの世を去ったのかもしれないという気がしています。
チェルノブイリは、石棺が老朽化して危険になったため、またそれを覆う石棺が用意されているところだそうです。一度原発を建設したら、廃炉にしても延々とトラブルがないように管理しなければならないし、一度放射能で汚染されたら、汚染前のクリーンな状態になすことは、至難の業ということが、ひしひしと伝わってきました。
福島原発事故を経験し、日本は世界に向け、資本主義の金儲けの視点ではなく、あらゆる生命を守る視点から「核なき世界」を発信していくべきでは、と改めて思いました。

長崎は、毎日雨だった

6月23日から26日まで、長崎に行ってきました。大村空港から高速バスで長崎入り。毎度ながら運転手さんの親切に感動。降りる時、必ず運転席から降りてきて荷物を取り出して手渡してくれる。関東ではセルフサービスで、車のトランクに出し入れは自分でしなければならない。若いときはそれも気にはならなかったが、老いてくると大きな荷物をトランクの奥から取り出すのさえ大変。タクシーの運転手さんも親切、ほんとに心が温かくなる経験をした。
日程は、びっしりで平和活動家故濱崎均先生のお宅を訪ね、仏壇の先生に活動報告。拙作「かわいそうなひまわり」を
版画付きで展示してくださったタイピントギャラリーの山口さんにご挨拶、ついでにそこに出入りしている若い漫画家さん、PCの達人、宮崎から駆けつけた「ばってんネットワーク」の事務局のKさんなどと、「これからのナガサキを、どう伝えていくか」を話し合った。
被爆者は年々死んでいくので、被爆者の生の証言だけに頼っては、やがて「ナガサキからの平和のメッセージ」は消えゆくことになる。参考にしてもらいたいと、つくば市周辺で戦争の体験も被爆の体験もない人たちの熱心な「ヒロシマナガサキを伝える活動」を報告した。
被爆者の証言を集めた60冊におよぶ証言集、ウエーブ上で聴くことができる1000人を超える被爆者の声を大切な資料(材料)として、それをどう料理して食卓に出すかが、これからの人たちの仕事であること。
たとえば、分かりやすく詩にして朗読するとか、映像や漫画などにして広めるなど、若い人だからこそ出来る方法で、
反核平和」を被爆地から発信してほしいと意見を言った。被爆地以外で活動している同じ想いのグループのことにも
関心を持ってほしい。そしてそんなグループと被爆地の活動が連携できるようなイベントを考えてほしいなど。
この話が、被爆地としては新しい視点ということか、記者クラブでも話すことになり、孫のような記者さんが、思ったよりたくさん聴いて下さった。
長崎市長さんに「ばってんネットワーク」にメッセージをお願いしてあったので、秘書室を訪ねご挨拶。フルにうごいたけれど、まだやり残したことありで残念!元気を出してまた帰郷しようと思う。長崎で出会った皆さんありがとうございました。それにしても、長崎はほんとに雨が多い。

「嘘だと言ってください。」のスペイン語訳

5月6日、つくば市の北条地区が、竜巻で大きな被害を受けました。福島から避難して、一息つこうとしていた方の中にも、またこの突然の不幸に巻き込まれた人たちもいます。
竜巻は外国でのできごとかと思っていた時がありますが、まさに日本のどこにでも発生するのだと、改めて自覚させられました。この天災が起こる前は、福島原発事故放射能の影響が気になる毎日でしたが、この度の竜巻の大被害には、その被害の大きさにすっかり原発事故が飛んでいってしまったような雰囲気です。
天変地異も私たち人間が引き起こしたことだろうと思うと、遅いかもしれませんが、これ以上自然の怒りをかわないことを何かやっていくことが大切なことでしょう。

国際ペン大会で出会ったパラグアイペンクラブ会長 EMI KASAMATSUさんが「嘘だと言ってください」をスペイン語に訳してくださいました。そしてそれをFさんがYOUTUBUにのせてくださいました。被爆者の悲恋物語ですが、こうして関心を持ってくださる方々によって広がっています。原爆、水爆が使用されなくとも地球上に原発がある限り、事故がないとは言えませんから、被爆者が増える心配があります。どうか、この歌のような悲劇が起きないよう、何か小さなことでもいいですから、やってみましょう。先ずは、スペイン語圏のお友達に下記の検索を御紹介ください。
http://youtu.be/fd-zBDPKuXg