小説: どこの馬の骨
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どこの馬の骨(創作)、 鶴 文乃
*帰郷・1967年の春
五年振りに東京から長崎に帰ってきて、私立女子高校の教師になることになった。一人暮らしの母親を安心させるためというのは表向きで、世の中不景気で文学部卒の女子には、条件のいい就職先がなかったからだ。所謂、「でも、しか先生」である。
まったくおもしろくない!いきなり三年生の担任に任命されたから、私が持つ知性とバイタリティを認めてのことかとうぬぼれていたら、バイタリティのみを見込んでの結果だった。いなないている馬にそっくりの長顔の教頭が、額にかかっている白髪をかき上げながら「今田先生は新人ですが、非常に体力と貫禄がおありですから、三年E組を持っていただきます。E組の生徒は、学力はそう高くないですが体力はあり過ぎるほどですから、先生の期待を裏切らないでしょう。進学をする子はいませんから、気楽にお守りをするつもりで頑張ってください」とさらりと言った。確かに、大学生時代は、柔道と女性は私しかいない自動車部とで過ごしたから、男ことばやしぐさが身について、女性らしくはしていられない。そんな私を何でか知らないがE坦任
に打ってつけだと思ったらしい。
私自身、女性らしさとか上品さとかこれぽっちも欲しいと思ったことがない。というのは、まだ幼い頃、祖母が母に向かって、「どこの馬の骨かもわからない子を連れてきて、、、」と言っていたことが耳に残っていて、自分の素性が分からないという思いがあって、品の良さなどないものねだりいうものだ。この祖母の一言をどういう意味だったのかを明かしたいという気持ちが、帰郷を決断したところもある。もしかしたら、母は全くの他人なのかもしれない。だとしたら経済的に苦しい中、大学へ進学させてくれた理由はなんなのか、それを母親の口から聞きたいと思っている。長い間、親子の間で避けてきた重いテーマ―だ。人生の節目に目にした戸籍には、何の問題もない実子だった。
教頭が、「お守り」と言ったのは、学校の名前に傷がつくような行為をしないように監視せよということらしい。三年ほど先輩の柴山先生に聞いたところ 、誰もそのクラスを持ちたがらないから、新米の先生に押し付けるのだという。「留年している子、万引き常習犯、煙草をすう子、長欠の子、授業中机で寝そべる子、その他もろもろ、しかし、まだ子どもを妊娠した子はいない」と先生は言った。更に、「ま、E(いい)組ではなくて、悪いい(E)組だわね。」と付け加えて笑った。「そんなに悪い生徒たちならやめさせりやいいでしょうに。どの先生にも無視されて1日の大半を過ごすなんて。」と、私は反論した。「やめさせたら、この学校生徒数が少なくなって潰れるとさ。と言うのは冗談ばってん。先生も初めからあまり張り切らんごとせんば。私も初めは正義感に燃えやる気満々だったけど、ほらこの様よ。」と、柴山先生は諦めたようにタバコにに火をつけて、思い切り吸い込んだ煙をふっと吐き出した。「どう、やる」とたばこの箱を向けた。「いや、結構です」と断った。「そうよ、やらない方がいいよ。私ね、ここに来てタバコをスパスパやる生徒に馬鹿にされてたまるかと、意地になって吸う訓練をしたと。校長は女の先生が生徒の前では困りますっていうけど、私がタバコを吸わないからって生徒が尊敬してくれるわけでもなし、、、、」柴山先生は諦めたように言う。
先生の話を聞いて、私が学生時代柔道初段で、自動車部に所属していたからと言って、彼女たちの素性を正せる訳がないと思うし、体格がいいとはいえ、体重では負けないとしても背丈は私を超える生徒がわんさといるはずだから、彼女たちにとって何の脅しにもならない。私は16年間、女子だけの学校で学んだことがないから、女子高というのが、どういう雰囲気なのか検討もつかない。
4月からの新学期の打ち合わせが終わって、どうも明るい希望が持てなさそうな気分になっての帰り道、思わずそこらにあった小石を思いっきり蹴飛ばした。ところが、急な坂が曲がりくねっている坂道なので、その石が、道をはみ出して道沿いにある民家の屋根瓦の上を転々とはねた。幸い瓦は無事だったが、カラカラと音がして家の中からおばあさんが飛び出してきた。私はとっさに転んだふりをして、足を撫でまわし顔をゆがめていた。白髪のおばあさんが、きつい顔をややゆるめて、「転んだとね。怪我せんやった、家は、道下に屋根があるもんやけん、石の転んできて瓦の割っるとさ。」と近づいてくる。私は、大げさに広がっていたキュロットスカートの裾をしぼめて、「いや、大丈夫です。すみません。」と謝った。おばあさんは、とことこと坂を上がってきて私の横を通り過ぎてから言った。「うん、瓦はどうもなっとらん。よかった。昨日、新しか瓦に取り替えたばっかりさ。」とほっとした顔をした。私は、「ほんとにどうもすみません」と繰り返すと、転げ落ちるように坂を下って行った。それにしても、山の上にある学校ゆえ、毎日の登下校で足腰が丈夫になるだろうから、日頃柔道で鍛えている体に磨きがかかるというものだ。E組に体力が必要というのなら、それもいい。矢でも鉄砲持って来いという気持ちになっていた。3月末というのに、坂を下りたところにある小さな公園の桜が早くも満開になっていた。
*始業式―四月七日
校庭の桜の花が、忙しく花びらを散らしている。始業式である。ずっと花曇りが続いていたがすっかり晴れ上がっていた。多少緊張気味に学校へ出かける。明日が入学式というので、今日は普段着でいいだろうと、ブレザとラッパズボンで出かける。他のニューフェイスは、ピカピカのスーツで現れたのでちょっと後悔した。勤務の長い先生は、ジャージや、ワイシャツにノーネクタイなんかのリラックスした服装が多かったので、古顔の振りをして居ればいいやと安堵する。背広姿で小太りの校長が自ら、檀上に上がって担任を紹介していく。女子高のせいか女の先生が多い。たまに男の先生が担任になると、会場がざわめく。三年の担任の発表が終わりに近づいていた。三年E組、今田愛子先生、この春新しく来られた先生です。東京の大学を出て、故郷の長崎へ帰って来られました。国語を教えてくださいます。先生は柔道初段で、自動車のA級ライセンスをお持ちです。、、、」と、余計なことをくどくどと紹介する。生徒は、今田愛子先生と校長が紹介した時、ざわざわとざわめいたが、その後シーンとしてしまった。外見から私を男性と思っていたらしく、期待が裏切られたということらしい。校長が今田先生ちょっとご挨拶をとマイクを回してきた。「初めまして、今田愛子です。男の先生でなくて残念でした。自動車部の顧問をします。よろしくお願いします。」と、まじめに自己紹介をした。三年E組が並んでいそうな列に目をやってみたが、取り立てて変わった反応もないようだったが、自動車部といったところで、生徒がお互いに顔を見合わせて「えつ!」、「まさか!」という言う生徒の声が波紋のように広がった。これまで、長崎市内の高校には、「自動車部」などなかったが、この高校は軽自動車部を作って、新入生集めのセールスポイントにした。私は車が好きだから あまり重く考えないで顧問を承諾してしまった。顧問といっても、生徒の免許証取得の指導と車のメンテナンスなど全て任されるらしい。助手の先生が付くとはいえ、大げさに言えば生徒の命がかかっている部活動だ。事故でも起こせば辞職だけではすまない。母親は、「それで、気を遣えば、少しはスマートになって、高く売れるだろうよ。いい結婚ができりや、私やいつ死んでもいいよ。」という。あまりしつこいので、「あんたのようなコブ付きじゃ、売れるもんも、売れないよ。」と憎まれ口をたたいてやった。「帰ってこい、帰ってこい」とうるさいから帰ってきたものの、今度は結婚、結婚とうるさい。結婚すれば必ずしも幸せになれるわけでもないことは、母自身が経験しているはずだ。戦争で夫は早々に死んだと聞いているが定かではない。私が物心ついて肉親と言えるのは母だけだ。私を育てるために一生の大半を使い果たして気が付けば人生の折り返し点を、ずいぶん過ぎている。私は結婚する気などさらさらない。できることなら男に生まれ変わりたいと思うが、それも難しい。そこで、弱弱しい女性らしさは返上して、柔道や自動車運転に夢中になった。好きなボーイフレンドも居ないわけではなかったが、心の底にこびりついてる「どこの馬の骨~」を忘れることができず、恋愛にのめり込むことはなかった。原爆廃墟の長崎で戦後を母と一緒に暮らした頃は、毎日の暮らしに必死で余計なことは忘れていたように思う。東京で学生生活を過ごしているうちに、無性に「馬の骨」の謎解きがしたくなった。狭い長崎で生きていたころより、周りのことが見え始めてきたということかもしれない。しかし、スポーツバカと言われるように、毎日体を鍛えることに時間を取り、物事をあまり深く考える暇がなかったから、これからは新しい課題に出会い、真面目に取り組んで知識を増やしていこうと思っている。
気が付くと、無精ひげの丸井先生が、名前に似合わず生活指導で四角四面なことをしゃべっている。
「前髪は、眉の上で切り揃える。長い髪は三つ編みにすること。髪を染めてはいかん。
爪は短く。靴下は白で1回折り曲げる。スカートはひざ下までの長さ、短すぎても長すぎてもいかん。靴は、黒の紐なし ブラウスは白だぞ。いいかあ」と、背伸びをするような格好で生徒を見回しながら、細かいことを言っている。小柄な体を意識して何とか大きく見せようとしているようでおかしかった。生徒も心得たもので、「はあい、はあい」と適当に相槌を打つ。時々民謡でも歌っているかのように調子をつけている子もいる。私は、スポーツの世界で過ごして、規則を守るのは当たり前と思ってはきたが、「こう、細かくては、かなわない」と、思いながら、周りの先輩先生方を見ると、妙にこわばった顔をして突っ立ている。これは、場違いな職場にきてしまったかもしれないと、思ってしまった。
新学期・オリエンテーション
始業式の時、生活指導部から、学校生活についての細かい注意事項を書いたプリントが手渡されていたが、読む気になれなくて机の引き出しに押し込んでいた。必ず説明をつけて生徒に渡すように念を押されていたので、目を通しながら三年生の教室がある四階に向かった。体力はあるとはいえ、学校までの山登りの後なので少々うんざりだ。
『新学年のスタートに当たり、、、、』という出だしで始業式の時丸井先生がうるさく注意していた事柄が並んでいる。どうでもいいことのように思えるのだが、「そういう考えでは、ここの教師は務まりませんから」と、あのどんぐり眼で睨まれると、とりあえず首になってはまずいので、拾い読みをしながら教室へ急いだ。私の2,3メートル先を二人の生徒が何やらぺちゃくちや囀りながら歩いている。どうやら三年生のようだ。私はプリントに目をやりながら彼らの後を歩いて行った。と、突然「わあ!」という声を出して、回れ右をして階段を下りてくる。私は気にも留めず、そのまま階段を上がっていった。急に天井が開けて青空が広がった。屋上だった。階下から、先ほどの生徒の笑い声が四階の廊下を走っていった。『しまった!』と苦笑して、屋上から駆け降りるとE組の教室に向かった。四階の廊下の奥のE組生徒たちが廊下へ顔を出してニヤニヤしている。先ほどの二人が駆け込んだのは、どうもE組らしい。
「先生、屋上は気持ちのよかろう、うちも行きたか。」と誰かが言うと、クラス中が、笑いに包まれた。「空気のよかけん、深呼吸ばしとんなったと?」「先生のピンカートンは、どがん船に乗って来らすと!」屋上の高い金網の向こうには、長崎の港が広がっている。
「うちのピンカートンは、船じゃなか、白馬に乗って来っと。もっと、かっこよかと!」と、思い切り長崎弁で言い返してやった。「うわあ、長崎弁の上手さあ」と、丸顔に団子鼻の生徒が、素っ頓狂に言った。クラス中が笑いさざめく。「静かに!長崎弁は、長崎もんやっけん、英語より上手。屋上で長崎の港から上がってくる潮風を久しぶりにあったてきたけん、元気いっぱい。ところで、さっき私の前をあるいていた、お二人さん、手を挙げて。」と、窓際の後方に座っている二人が、ニヤニヤしながら手を挙げた。「なんで、屋上です。って、おしえてくれんやったと、お蔭で大根足が張ってきたよ」
「先生、自主自立です。個人の自由意志を阻止するわけいかんもん。それに難しい顔して何か読んどったでしょう!」と、髪の毛を極端にショートカットした生徒が言った。
「まあね、プリント読んでるうちに、何階上がったか分らんようになった」
「うちたちも、しゃべってたら屋上に出てしもうた。先生もそそっかしかね。」
「悪かったねえ!とにかく一年間よろしくね。」と、わざと気取らない言い方をした。
体は至って健康なのだが、目が中学生頃から視力が落ちて眼鏡を掛けねばならなくなった。高校に入ると柔道部に入りたくなって、市場に出始めたコンタクトを入れた。これが面倒くさい。朝寝坊したりすると目に入れるのが面倒でそのまま飛び出すことがある。そういう時のために眼鏡もバックに入れているはずなのだが、入っていなかったりする。そうすると、周囲がぼやけるので、いろいろ手違いが起きる。特に階段の上り下がり、同じ間隔で付いている教室のドアなど間違えてしまう。新学期初日に、屋上に登ってしまったことが、生徒にどういう印象を残したか気になるところだが、やってしまったことは仕方がない。教室には何となく緩んだ空気が流れ、生徒はほっとした表情で私に視線を向けている。しかし、一人だけ緩やかなウエーブのある茶髪を、机に貼り付けたように顔をうつ伏せにした生徒がいた。私を無視しているのか、反抗しているのか分からないが、ずっとそのままで動かない。クラスメイトも気にする様子はない。『髪を染めない、パーマをかけない』という生徒指導の項目が頭によぎる。私は声を掛けようと教壇を下りたが、これは簡単にはいかないだろうと、ふと思い直してプリントを各列の先頭の席に配った。プリントは、一枚ずつ前から後ろへと回されていく。例の生徒は依然として頭を上げない。その前の生徒が一枚とってそっとうつ伏せの顔の横に置く。プリントは何事もなかったように後方へ配られていく。暗黙の了解があるのか、生徒たちはいとも当然のように茶髪の生徒パスしていく。私は、やはりそのままで通り過ぎるわけにはいかないと思い、つかつかと彼女に近づきポンポンと頭を軽くつついた。
「ねえ、どうした、気分でも悪かと?」つつかれても微動だにしない。「ちょっと顔を見せて。私は今日が初めてだし、私を覚えてほしいし、あたしもあなたの顔を覚えたいから。」と、彼女の顔を机の下から覗くようにして言った。うつ伏したまま反対の方へ顔を背けている。私はそれにかまわず、「じゃ、プリントをよく読んでください。毎年のことで見たくない人もあるかと思いますが、学校生活ではやはり必要な決まりがあって当然だと思います。ちょっと、教壇の前の人、出席簿を持って来て。私はこの人が私の顔を見てくれるまで、ここを動きませんから。」
それから、出席簿を開くと一人ずつ名前を呼んでいく。「林田えりさん」反応がなかった。「林田さん、来てませんね」とバツをつけようとした時、生徒たちが一斉にうつ伏せの彼女を見た。「ああ、あなたが林田えりさんね。返事をして林田さん。あなたが返事をしなきゃ次の人が呼べないから。」なめられてたまるかと意地になっていた。カールした髪が時々ふわっと動いては静止した。しゃべっていた生徒たちが急に静かになった。重苦しい空気が流れた。次へ飛ばそうかと焦りが出てきた。「先生、早くしてよ、早く帰りたいから。」という声がする。「いや、ちょっと待って、林田さんは初めて会う私になぜ挨拶できないのか知りたいのだから。私がブスだから、デブだから、理由が分からないと納得できない。だからもう少し待って」十分が経った。「先生、えりは、英語しか分らんかもよ。えり、英語で話しなよ」と、思いきり制服のスカートをロングにした生徒が言った。「私は英語は話せんもん。長崎弁なら得意ばってん。(みんなが笑った)林田さん、返事はよかけん、顔だけ見せんね。みんなの顔を今日中に覚えたいから。今日は慌ててコンタクトも眼鏡も忘れて、あんたの側じゃないと見えんと。そんなだと病気じゃないかと心配だから」それからまた十分ほどが過ぎた。えりの頭がかすかに動いたかと思うと、顔を少し横に向け、下から私の顔を睨み上げた。浅黒い肌色にくっきりした二重瞼の目で鋭く私を見た。思わずどっきとしたが、それを抑えて
「ああ、私の顔見てくれたのね。のっぺりぷっくりでがっかりした?それに比べるとあなたは、まるで西洋の女優さんね。すてきよ。じゃ、次の人にいくよ。」と、勤めて冷静に言ったが、内心どぎまぎだった。一通り名前を呼び確認して、明日からの予定や生徒たちのもろもろの役員や当番を決めさせ、下校のあいさつをした。と、それまで寝そべっていた林田えりが、突然立ち上がると机の上の配布されたばかりのプリントを鷲掴みにしてそのまま丸めてゴミ箱に捨てると、スタスタと教室を出て行った。その一瞬だけクラス全員の動作が止まったかのように感じた。
「先生、気にしない気にしない」という声がして、クラスがにぎやかさを取り戻した。
しかし、私の気持ちは、クラス全体が動きを止めた一瞬のままであった。走って追いかけ腕づくで教室に連れ戻すのは柔道初段の私には簡単だ。が、私の足は動かなかった。
自動車部
林田えりは、毎日学校には来ている。が、相変わらず教室にいる間は、机にカールした茶髪を机上に貼り付けたように、うつ伏せの状態でいる。友達もつくろうとせず、ひたすら自分の世界で過ごしている様子は、見るに堪えない。それでも毎日登校するのは、1年留年したからのようで、毎日席を温めてはいる。
私は、彼女との話すきっかけをどうして作ったものかと悩んでいた。すでに始業式から1か月半も過ぎていた。学校はうるさく校則を守れと、朝礼に生徒の服装、髪型をチックする。E組だけは別格のようで、パーマネントを掛けた生徒や、長いスカートの生徒がいても、生活指導部の先生は見て見ないふりをしてやりすごす。それが、E組の生徒を怠惰で無気力にしている。私は、一つ賭けをすることにした。この春から私が監督兼顧問をする自動車部にE組の半分が仮入部をしている。三年生だけのクラブ活動だが、人気は高く、驚いたことに林田えりの名前もあった。しかし、えりは、まだ活動に顔を出していないが、これで彼女との繋がりが可能になるかもしれないと期待した。えりは、私には関心がなくとも自動車には興味を持っているのは、違いなかった。
五月晴れの日、クラブ活動に入る前のホームルームで、こう言った。
「そろそろ自動車部の定員25名を選ばねばならないのだけど、希望者は50名ほどいるので、半分は次の機会にしてもらわなきゃなりません。自動車部の練習者は、中古車で、上手に扱わないと動かない。また、車は、免許を取らねば公道を走ることはできない。練習場では、約束事を守って、指導する私や助手の先生の指導に従うことが大切です。車は、時として扱い方が悪いと人の命を奪います。ですから、先ず、安全に運転するために、服装は体操服で、髪は、できるだけ纏めるか、ショウトカットにしてください。要は、校則を守っている人は、入部できるということです。」
「先生、クラブ活動は、制服じゃないし、校則とは関係なかやろ。」と、制服のスカートを足の踝まで長くして履いている平岡典子が言った。「大体あのポンコツの軽自動車、先生のごと、ふっとか人が乗るっと?練習場は坂の下の広っぱというし、下りはよかかもしれんばってん、登りは先生の重さで車が上りきらんかも」と、思ったことをズバズバ言う太田民子が付け加えた。クラス全体が、クスクス笑い始めた。
「残念でした。私が乗るとスイスイ動くのよね。自動車部は、ただ運転するだけじゃなくて、エンジンいじったり、タイヤ替えたり、機械の油で手は真っ黒になるし、時には車体の下にもぐらんといかんから、身軽に動ける格好がよかとさ。ポンコツが三台だから、実をいうと部員は15名くらいで精いっぱいさ。はっきり言って、運転の練習よりメンテナンスの時間が多いと思うから、女性の整備工を育てることになるかな!」
「先生、いっそ、ダンプカーだったらよかったのにねえ」と、典子が言った。
「そうさ、私もダンプカーの方がよかった。ばってん、あんた達、十八歳だから、せいぜい軽自動車の免許しかとれんやろ。一、ヒメ、二、トラ、三、ダンプというけど、軽自動車でもあんた達が運転すれば、一、ヒメに入るやろ、私はそんな危険なヒメなんて育てたくないよ」
「ヒメって、女性ドライバーのことやろ。先生、女だからって運転が下手で危険とは決まらんと思うけど」と典子。
「そうね。残念だけど女性ドライバーが、危険というのは事実らしい。急に割り込むし、いきなり停止したり、周囲の状況判断がどうもうまくないようで事故が多いらしいよ。女性は、あんまり機械に慣れていないということもあるね。」
「じゃあ、先生も一ヒメ中に入るとやろ」と、小柄な目のくるくるした山上成子が、言った。
「まあね。でも、酒飲むとヒメトラになるから、その方が危ないから気を付けてる。」
「先生は、ヒメ、トラ、ダンプじゃなかと」と典子。
「ダンプは運転せんから」
「じゃ、先生は、体の太かけん、酒飲めばヒメトラダンプ!」と、典子が囃す。笑いがどっと広がった。えりは、その笑いには反応せず、相変わらず寝そべっている。
「結構、ヒメトラダンプ。気に入った。じゃ、明日の放課後、簡単な適正試験をして、多くても二十人くらいにしぼるから。私みたいにショットカットにしてきた人は、無条件に入れてやる。よかね。」
「いやだよね。髪を短くすんの。」と、生徒たちのボヤキが広がる。
「考えてごらん。あの砂ぼこりの練習場で毎日練習やるのだから、今から夏にかけて汗と埃で体は泥まみれになる。そんな時、水道でざあざあ頭を洗ってすっきりできるし、短いとすぐ乾いて格好もつく。第一、丸井先生に文句を言わせなくて済むから、一石二鳥でしょ。」
「校則、校則って、うるさいんだよ。髪の毛長くてどうしていけないのさ。えりなんか、天然パーマで、長めにしないと格好つかないのに、やれ染めたの、パーマかけたの、とうるさいんだよ。かわいそうに疑われっぱなしで」と、太田民子がふうふくそうに言った。
「いや、校則は置いといて、スポーツの世界は、ルールを守らなければ身の安全が守れない世界なのさ。自動車もスポーツだよ。フランスのラリーとか、知ってるでしょ。もっとも、過酷なスポーツかもしれない。故障した車を修理しようとして、長い髪の毛がステアリングに巻き付いたりすると危険だから。長くなるから、今日はここまで。じゃあ、明日はよく考えて入部を決めてください。終わり。」と、打ち切った。
私は民子の発言に動揺していた。えりの髪の毛が天然と言われて初めてそうかと気づいたからだ。態度がひねているから、初めからパーマをかけたのだと、決めつけていたところがある。そう言えば、えりはどこかエキゾティクな顔立ちをしている。私の本心は、髪が短かろうが長かろうが、カールしようがしまいがどうでもいいことだ。クラブ活動をやる気があればいいのである。しかし、私立の学校の方針とやらに従わねばならない職務がって、そのジレンマに胃が痛くなる思いがしていた。
職員会議
早くも中間試験が終わった水曜日の午後、この日は部活がないので、午後から職員会議が開かれることになっていた。会議の冒頭は、たいてい各クラスの月謝未納者の発表を教頭がする。案の定、一年生から始まって三年生まで、各クラス三、四人の未納者があって、いよいよEクラスの発表である。教頭は、一呼吸おいて二十一人と言って、私の方を厚いレンズの眼鏡を向けた。
「今田先生、未納者がクラスの半分くらいありますから、よろしくお願いします.」と、呆れたように言った。
「いや、半数ではありません。人数は六十名はいますから三分の一です。」と、私は反射的に言い返した。教頭は馬面の鼻の孔を開いてため息をついて言った。
「ほかのクラスは、一桁ですから頑張っていただかないと。」
「先生のクラスは、月謝を納めれば勉強はできなくても、法則を破っても見逃がしてもらえるのだから、一番楽でしょう。」と、のっぽの岩永正夫先生が続けて言った。
私は、急に頭に血が上って、自分が新任であることも忘れて、
「生徒の事情もありますし、そううるさく催促はできません。できれば、月謝の事は、事務局の方でやっていただけませんか」と、言った。
「私立は、生徒の月謝で成り立っていますから、月謝集めも先生の仕事です。」と、教頭は、校長の赤ら顔に視線を送った。
「まあ、先生は新任で初めてのことばかりですから、少しずつ慣れていただくことにして、次の議題にうつりましょう。」と、校長はとりなすように先へ急いだ。教務主任の松岡正子先生が、小柄な身体を少しでも高く見せようとするのか、つま先立ちをして、頭のてっぺんから発するような甲高い声で、「中間テストが終りましたから、成績は来週中には出して生徒へ成績表を渡してください。受けなかった生徒には、受験のチャンスを与えたり先生方の協力をおねがいします。以上。」と言い終わって腰を下ろすと、机の上の本や書類の陰になって私の席からは、姿が見えない。女性でたった一人の役付きの先生だ。
「受けても、受けなくっても同じようなもんだけどね。こう白紙で出す生徒がばかりじゃね」と、隣席の柴山先生が、小声で言った。次に立ったのは、のっぽで牛のような頑丈そうな首をした体育担当の熊川勇夫先生が立ち、「来年、国体が長崎で開催されますので、優秀な選手を育てなければなりません。これから体育の部活は、ハードスケジュールになりますが、諸先生のご協力とご理解をお願いいたします。」と、国体を一手に引き受けたような挨拶をした。そのほか、文化部の活動、生活指導部等々関係の教師が面白くもないお願いと報告をして終わった。会議といっても、報告と要望のみで議論はいっさいないから、全く退屈な時間である。
しかし、職員会議の後の雑談は、落語を聞くよりおもしろかった。
冬場、ダルマストーブに、シュンシュンと湯気を出しているヤカンが置いてあったが、夏場は取り外され、代わりに大きなテーブルが置いてあって、その上に大きめのポットと急須、茶缶が置いてある。時間が空いている先生は、自分の湯飲みを持って来てお茶を入れ話に花を咲かせる。まず、国語の柴山先生が口火を切った。
「うちの生徒は、ギャグが上手でねえ、この前教科書を読ませたら、アジテーションやサボタージュちゅうのがアジやサバなんて読んで、ついでにプロパーガンダを、プロパンガスなんて言って平気なんだから。」
「そりゃ、アジやサバならプロパンガスで料理せにゃね」と、英語の馬渡良二先生が受けた。思わずそこに居合わせた四、五人の先生が笑い転げた。私も思わず笑ってしまったものの急に思い当たることがあって笑えなくなった。
「それがさあ、読ませる前に黙読させながら、冗談でアジやサバじゃないからね。カタカナ語は、きちんと間違えないように読みなさいと注意したのに聞いちゃいないわけ。で、わざと冗談に乗ったのかと思ったら、生徒は必死に教科書の文字を追っている様子なんだもの。生徒全員が大笑いするなら救われるけど、みな真剣な顔をして教科書を見てるんだもの。これにゃまいったわ。」
「うーん、そりゃ悲劇だ。」と、また馬渡先生が返した。
「それで、どうしたんですか。」と私は聞いた。
「仕方がないから、アジやサバじゃなくて、アジテーション、サボタージュでしょって、注意したわけ。そしたらクラスのみんなが笑いだした。私、笑うどころじゃなくなんだか、情けなくなってさあ。」と、深刻な顔をしている。
「カタカナ語は、英語と思ってるんじゃないか、もともと外来語から来とるんやろうけど、文章自体が英語のようで、理解できんとやろ。僕らも英語でジョークを言われてもすぐ反応できず、外人さんが笑い終えた頃笑うちゅうことがあるから、それと同じたい。」と、馬渡先生は、変な理屈で柴山先生を慰めている。
私は、先の古典の時間に歴史物の四鏡というのを説明したことを思い出していた。鏡物と言われる大鏡、今鏡、水鏡、増鏡の説明に、生徒の受けを狙って冗談を言った。
「みんな、試験に出たら、この四鏡を、手鏡、合わせ鏡、ヒメ鏡、前屈み、なんて、書くんじゃないよ。」と言ってしまった。生徒は分かったような顔でにやにやしていた。
が、中間試験が終わったばかりの今、にわかに気になり始めた。冗談だけ覚えているということもある。クラスの二、三人くらいならご愛敬、しかし、それが半分以上の生徒ともなれば、教師の教え方に問題ありということになる。そそくさと自分の席へ戻った。そして、クラスの古典の解答用紙を取り出した。私の予感は当たっていて、当て字ならぬ当て鏡が答案に踊っているではないか。私は、前屈みになって、前鏡、手鏡等々の採点をし始めていた。
家庭訪問
六月に入って高校には珍しく家庭訪問が始まる。学校側には、生徒個人の家庭の事情を把握しておきたいという意向があるのだろう。私は、新学期が中盤に入って妙に腹が立つ毎日を送っていた。生徒に冗談が通じないし、かといって真面目に勉強しようという態度などさらさらない。寄ると触ると食べ物の話か男の子話ばかりで、何のために学校へ来ているのか分からない。とは言え、本人たちは至極幸せそうで悩みなどなさそうなのだから不思議だ。いや、正確に言うと悩みは、たっぷりあり過ぎて対応しきれず、突っ張っているということだろう。私は後悔し始めていた。私立だと転勤がないからという理由で安易に決めてしまったことに。飲みたくない馬を水辺に連れて行って、何とか水を飲ませようとしたところで、無駄なこと。かと言って、50分の授業中木偶の坊ように突っ立って時間をやり過ごすのもやりきれない。ここで退職するのも気がすすまない。未だに、口をきこうとしない林田えりに、口を開かせるファイトも出てこない。
朝、出勤しようとする私に、母が、「何事も修行だよ。おまえさん、世間知らずだから、いいチャンスをもらったと思って投げないで頑張るんだよ。間違ってもやめないでくれ。」と、日に日に元気をなくしていく私を見て、そう声を掛けた。
「わかってるよ。」と、答えて家を出たものの、学校と反対方向へ歩き出しそうになっていた。気持ちが弾まず坂を上る足に力が入らない。「全く、やたら急な坂なんだから。」とブツブツこぼしながら登って行く。少し早い時間だからまだ登校する生徒は少ない。多くの生徒は、控えめに挨拶をして私を見送るかたちになる。すると、坂の下から、
「先生、待っとって!」という明るい声がした。ショートカットの太田民子が、男物の古い自転車を押しながら登ってくる。
「なんだ、太田さん、自転車なんてどうしたの。」と、私は足を止めて言った。
「帰りに母の職場に学校から直接行かなきゃならないから。」と、息を弾ませながら追いつてきた。「学校に自転車持っていくわけ?」
「そう、校則に自転車ダメなんて、書いてないもん」
「そりゃそうよ。この坂の長崎で誰も自転車なんか乗らんもの。校則に書くはずないさ。」
「うん。でも、自転車結構便利だし、スリルが楽しめるよ。この坂なんか帰りはジェットコースターなみなんだから。ところで、先生は自転車乗れる?」と、得意げに言う。
「いや、乗れない。その代り自動車に乗れるから。と言っても自動車が買えないけどね。」「そうだろうと思った。私をお転婆と思っているでしょう。」と民子。
「いや、べつに。坂が多いからしょっちゅう押さなきゃいけないから、ご苦労さんよね。」
「うん、まあね。」と民子は言って汗を流しながら自転車を押している。
「先生、今日五番目にうちの家に来なっとでしょう。もし、留守だったらちょっと待っとてください。すぐ帰るから。」と言い残して民子は用務員室の裏へ自転車を押して行った。家庭訪問に行って待たせられるとはと、少し不愉快に思いながらも、「そう、分かった。じゃ。」と言って職員室へ向かった。民子、は普段はおとなしそうなのだが、言うべき時は、遠慮なく言ってくるので、時々どぎまぎさせられることがある。
短縮授業が終わって、昼過ぎから家庭訪問だ。市内を約10か所に分けて地域ごとに生徒の家を訪ねることになっている。中には市内からは遠い地域や島などから来ている生徒もあって、直接父母に会えないこともある。しかし大半は、長崎一の繁華街の浜町や中華街からの生徒が多い。民子の家は、浜町から中島川を渡って、鮮魚店が並ぶ築町の一角にあった。私は、長崎市の北の方の山村で育ち、大学は東京へ出たから、実は長崎の繁華街周辺のことは、あまり知らない。でも30分もあれば、繁華街を一通り歩けるような小さな町だから、生徒たちの家探しなど何のことはない。一人20分の訪問として歩く時間を入れて30分、一日6人くらい訪問する予定だ。ベビーブームとやらで、一クラス約60名はいるから、一〇日はかかることになる。5軒目の民子の家はなかなか見つからなかった。近所まで来ていることは確かなのだが、民子の住所には、違う標札が掛かっている。近くの鮮魚屋さんの掛水が道路をどろどろにしていて、三枚の細長い板が敷いてある。そこをどぶがはねないようにゆっくりと歩いていくと、トタン葺きの小さな家があった。しかし、標札には【金 正一】とある。引き返して近くの鮮魚屋さんに尋ねてみたが、この近くには、【太田】という家はないという。諦めて帰ろうとした時だった。「先生、先生、すみません。」と、民子が息を弾ませて声を掛けてきた。
振り返ると、制服を着たままの民子が、小さなリヤカーを付けた自転車から、スカートを翻して降りるところだった。母親らしき人が、息を切らして駆け付けてきた。
「あらあ、今探してたんだけど、分からなくって。よかった」迷子の幼児が親を見つけたようなほっとした気持ちになった。「「今日は、繊維問屋さんが廃業するというので、ぼろ布をもらいに、もう5回も往復したとです。足の痛とうなった。」と、民子は後ろを振り返って言った。「まあ、よこそ、民子の母です。きさなかとこですばってん、どうそ、どうそ。」と頭の手ぬぐいを取りながら言った。絣のモンペを履き白い割烹着をつけて、どこかの炊事場からかけつけたようだった。民子は、私が先ほど引き返してきたどぶ板の上を、自転車を押しながら先ほどのトタン屋根の家に向かう。
「先生、うちは恥ずかしか。こがんあばら家に住んどって。」と、しょんぼりしたように言う。私は、少なからず衝撃を受けていた。家がみすぼらしいからではなく、民子が在日朝鮮人と言われる人たちの一人だったことを、初めて知ったからだ。民子は、日本語も達者だし、明るい性格で複雑な事情を背負っている様子など、微塵も感じさせない。『民子が朝鮮人だから、それが何だ。何でもないではないか.』と、心の中で繰り返していた。それにしても、長崎には多いと聞いてはいたが、この歳になるまで実際に触れ合ったことがないというのは何といううかつなことか。これまでそういう事情の人とは巡り合ったことがないというか、会ってはいてもそうとは知らず、やり過ごしてきたかもしれない。複雑な気持ちで玄関の前に立っていると、民子が荷物を降ろしたリヤカー付き自転車を小さな庭の隅に納めて、母親が玄関の引き戸を、ガタガタと開けた。
民子の家
一坪くらいの土間にレンガを組み立てて造った竈が二つあって、大きい水瓶がある。木造りの流しは、内側にブリキが貼ってある。壁はトタン一枚で、ところどころ錆びて穴が開き、その小さな穴から夕陽が一筋の線になって入ってきている。私は、どこかでこの雰囲気を経験したような親近感を持った。
「先生、こんなひどか家でびっくりしたでしょう。ほんとは来てもらいたくなかと。ばってん、小学校の時からずうとそんな思いをしてきたから、この頃はどうでもよかちゅう気になって」と、民子が少し投げやりな様子で言った。
「いいえ、私の家もつい最近まで同じようなところだったから、どこか懐かしいよ。」
と、即座に答えていた。つい最近までというのは嘘であったが、幼い頃確かにこんなあばら家に住んでいたという記憶があった。あの頃、母は、私を負ぶって毎日近くの石切り場へ行った。山の斜面から切り出される石に混じって辺りに散らばる石の屑を集める作業だった。作業場に着くと、休憩所に私を置いて働いた。そこには、賄いの叔母さんが居て、私のお守りをしながら、作業員の炊き出しをしていた。一日の大半をそこで過ごしたから、休憩所を自分の家と錯覚していた頃もあった。あの頃の母は、いつも何かに追われるように働いていた。小学校へ入学しても相変わらず母は、石切り場で仕事を続けていた。低学年の時は、家には帰らず直接石切り場に寄り、仕事を終える母を待った。石切り場から上がってくる母は、石の粉が睫毛や鼻の孔にこびりついていて、別人のような顔になっていた。幼かった私は、それが不安で石の粉まみれの母の顔を、母の肩に掛かっている手ぬぐいを取って、急いでふいてやった。そうすると、母は我に返ったように、私を嬉しそうに抱き上げてくれたものだった。
「先生、どうそ、きさなかとこですばってん、」と、六畳一間の上がり框に、薄っぺらな座布団を置いて、私にすすめた。「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと」と、
裸電球が照らし出す絣の座布団を敷いて腰を掛けた。「お気づきの通り、わたしたちは、皆さんが言う半島人です。日本のせいでこんな暮らしをしとるんです。たから、この娘にも、何にも恥ずかしかことはなかと、言うとります。こんな生活でよく高校までと、お思いでしょう。教育があれば、いい仕事ができます。何としても卒業させたかとです。」と、単刀直入に話し始めた。ことばのところどころで、濁点が抜けた長崎弁でしゃべっては、時々薄汚れた手ぬぐいで顔をぬぐった。民子は黙って土間の竈に火をつけ、大きなヤカンを掛けて湯を沸かし始めた。「私の母も同じことを言って、大学まで行かせてくれました。今とても感謝しています。だから、民子さんも頑張ってもらいたいと思います。」と、とっさに答えながら、月謝の話をいつ切り出すか戸惑っていた。と、
私ら、働いても働いてもいつも金欠病に悩まされています。先生にもご迷惑をかけとります。あと、一週間すれば、金が入りますから、どうかちょっと待ってもらえませんか」と、母親は、私の心の中を見透かしたように言った。「ええ、分かっております。どうか、気になさらないでください。」と、思わず言っていた。民子がお茶を入れてくれて、辺りにほうじ茶の香りが妙に香ばしく広がった。と、突然玄関の引き戸が荒っぽく開いた。「ごめんよ。地主の神山だがね。地代をもらわんと、今日は帰らんから」と、なっぱ服に、地下足袋を履いたがっちりした男が入ってきた。「あら、地主さんかねえ、ちょっと待ってもらえんかね。今、お客さんたからよお」と、母親はちょっと顔を引きつらしながら言った。「えつ、お客さんかい。客が来るくらいの金があるなら、少しでも地代を入れてくれちゅうんだよう」と、わめく。「ちょっと、待ってください。私T高の今田です。もう少しで終わりますから、静かに待ってもらえませんか」と、ヒメ、トラ、ダンプの出番とばかり思わず返した。地下足袋男は急におとなしくなって外に出て行った。と、バターン、バリバリという何かが壊れる音がした。「うっわ、」と、地下足袋の男の声がした。慌てて、玄関の引き戸を開けると、庭に置いてあった長椅子の足が四本ともふきとび、板の上に男が尻もちをついたまま、手はどぶの中だった。「なんちゅうことをしてくれるう。うちが、せっかく苦労してつくったばっかやったとに」と、母親が、裸足で家から飛び出して言った。「いてて、なんちゅうこちゃ。」と、地下足袋男は、どぶだらけの手を振り振り逃げて行った。母親と民子が、とたんに笑い出した。「母さんの下手くそな日曜大工が、こんなところで役に立つとはねえ」「そいても、座っても大丈夫なように造っとたはずばってん。」と、親子は笑い転げている。私も事情が分かってきて、思わず笑いだしてしまった。「父さんが、新学期の始まる前に病気で死んだとです。だから、母さんが今なんでもせんばいかんとです。夜家の中が暑かけん、外で涼めるように母さんが、我流で長椅子を造ったとです。ちょっと危ないから、そっと座ってたとです。」と、民子が笑いに息を弾ませながら言った。母親が飛び散った板切れを片付けながら言った。「先生、とんだとこ見せて。どうぞ、もう一度お入りくたさい。」
「いえ、まだ回らなきゃいけませんから、今日はここで失礼します。」と、辞したが、民子が弟妹を迎えに行くからと途中の小さな公園まで一緒に来た。「先生、私の下に三人いるんです。ほんとは、父が死んだ時、学校を辞めようかと思ったんです。でも、母が許さなかったので、学校には内緒で、夜はバーで働いているんです。他の仕事より稼げるので、なんとかやっていけてるんです。」とすんなり白状した。「今の話聞かなかったことにするから」と、私は短く答えた。「ありがとう。先生、あの地主のおじさんちょっと気の毒だったけど~」と民子。「大丈夫よ。思わぬところで笑わせてもらってありがとう。また次の撃退法考えなきゃね。」と私。「そうですねえ。頑張りまあす。」と民子はおかしさをこらえながら手を振り、公園の木立の中へ消えて行った。
典子の家
私の高校時代は、進学校だったので、実力試験の点数を人より一点でも高い点数をとることに夢中で、周りのクラスメイトが何を考え行動しているのか、どんな家庭環境にあるのかなどまるで興味がなく、自分自身のことさえあまりよく分かっていなかった。あれは、いったい何だったのだろう。この23年間の人生で何か取りこぼしてきたことに気が付き始めていた.出来の悪い生徒たちが集まる底辺高と軽蔑してきた高校の教師になって、初めて生徒たちの背景にある社会的な問題に気付き始めていた。一見、日本人としか見えない外国人の存在、それは本当に私の身辺にはなかったことなのだろうか。複雑な気持ちで浜の町のアーケードを抜けて中華街へ向かった。今度は、一癖ありそうなロングスカートの典子を訪問する。中華街の朱色の建物の金銀の派手な漢字が躍る看板を一つずつ読みながら、奥へ奥へと入っていった。こまごまとした中華店をやり過ごし、一番目立った看板の「竜」のドアを押した。薄いピンク色の壁に、雲の合間を突き抜けていく龍の姿が描かれている。貝殻を埋め込んだ螺鈿の衝立が、広い空間を仕切っている。ピンクの照明に貝殻が染まって輝いている。勤め帰りのサラリーマンやOLが、そろそろフロワを埋めつつあった。予想外に訪問が長引いて店の忙しい時間にぶっつかってしまった。「あの~、T高の今田ですけど~」と、奥の厨房に声を掛けた。中から中年の女性が、「ああ、どうも。」と会釈しながら長い暖簾を押しのけるように出てきた。
「こちらへどうぞ」と、パーマのかかった髪の毛を後ろに纏めた女性は、店の奥へ案内した。そこには、階段とエレベーターのあるスペースがあった。「五階ですから、どうぞ。」と、私に乗るように促した。「すみません。すっかり遅くなってしまって。」と、エレベーターのボタンを押す女性に謝った。更に、「あのう~」と話を続けようとすると、「典子の母親は上で待ってます」とひどく不愛想な声で言った。五階の踊り場は、大理石が敷いてあって、一間ほどの玄関のドアがあり、音もなくすうと開いた。
「ミイ姉さん、先生よ。」と大声で奥へ声を掛けた。玄関のなかにもピンクと緑の市松模様のタイルが続いている。「はあい、どうもごくろうさま」と、大島の渋い着物を纏った女性が出て来た。
応接間に通されると、翡翠細工の置物が飾り棚をびっしり埋めているが、目を引いた。飾りデスクには、これまた高さ一メートルはありそうな偽物の翡翠の花瓶が置いてある。
「典子の母の美位子でございます。典子がいろいろとご迷惑をかけてすみません」と、ジャスミン茶を入れながら言う。「いいえ、私は新米の教師ですから、まだ至りませんで」と、返した。「こんな店をやっているものですから、目が届きませんで。兄妹も多くて、あの子の上に四人、下に七人おるもんですから、なかなか目を掛けてやれずに。」と、お茶を勧めた。「はあ?お子さんがそんなにたくさんいらっしゃるんですか。たいへんですね。」「ええ、いろいろありまして。」と、母親は、鼻の頭にハンカチをあてて、汗を拭いた。「あのう、御両親は日本の方でしょうか。」と、単刀直入に訊いた。と、母親はおほっほと笑いながら、「着物着ていても中国人に見えますか。どなたもそう思っていらっしゃるようですけど、私は日本人で夫は中国人ですの。」と、江戸弁で答えが返ってきた。「ああ、すみません。そうではないかと思ったのですけど。ちょっと。」私は、民子のことが頭にあって、この長崎では表は日本人、裏は朝鮮人、中国人他諸々というのが、普通なのかもしれないと思い始めていた。典子の母親は、ふくよかで優しい雰囲気がある。色白の顔に憂いを含めて目は、いつも伏目がちだ。「あのう、何か問題はありますでしょうか。」と、膝の上に手を置いて、すうと目を上げて私を見ると、またすぐ目を伏せた。「ええ、問題というほどでもないのですが、服装が、いつも生活指導部の先生に注意されているようです。その点、お母様はどう思っていらしゃるのでしょうか。」と、私は言わなければいけないセリフを、一気に言ってお茶を一口飲んだ。
「そうなんですよね。いつも口酸っぱく申してるんですけど、言えば言うほど、スカートの長さが、一センチづつ長くなっているように思いますの。実は、私も困っております。」と、ますます目を伏せて、膝の上の手をもじもじさせながら、母親はつぶやくように言った。「いつも叱られているのを見ると辛いのですが、ご本人は結構それを楽しんでいるようにみえて、まあ仕方がないかと思いかけています。」と、諦め気味に言った。「先生に、厳しくおっしゃっていただかないと、、、、。」「ええ、もちろん、注意はするのですが、、、。おうちではどんなふうですか。」「ええ、私とはあまり話をしませんの。あの子は私を軽蔑しておりまして。でも、下の子供たちの面倒はよく看てくれて優しいところも在りますの。」細い指先でおくれ毛をそっと上にあげながら言った。
「スカートを長くすることが、典子さんの何かの主張かもしれませんから、私ももっと彼女の心の内を聞いてあげたいとは思っているのですが、、、。」「ほんとに申し訳ありません。私がこんな風なものですから。」と、今にも泣きだしそうな表情で言った。何か深い事情がありそうで早々に辞して、外に出た。中華街の通りを足早に歩いていると、路地から急に典子がTシャツで、髪の毛をすうと肩に流している。
「先生、どうだった。あの人、何かしゃべった」「ええ、まあ~ね。」
「しおらしく見えるだけだよ。うちの父さんの第三夫人さ、まるで人形さ。役割があってさ、第一夫人は中国人の楊貴妃、第二夫人は西洋人のクレオパトラ、第三夫人は、日本人の小野小町、第四、第五、第六って居るんだ。だから、ガキがそれぞれ居てさあ、十二人もだよう。そんな話しなかったろ。全く、変な家だよ。それがみんな同じ屋根の下に住んでて、夜は、おやじは、とっかえひっかえすけえべして、昼は、自営の中華料理店で一緒に働いているんだもんねえ。ぐれない方がおかしいよ。」典子は、肩をそびやかして、両手をジーンズのポケットに突っ込みながら一緒に歩いてくる。「ああ、そう。」私は、思わず立ち止まりながら、そんな事があるわけない、いや、あるのかもしれないと、典子の話を、どこまで信じていいのか分からなかった。「だから、ぐれるって、それはあなたが弱いからでしょ。世の中、父親も母親も誰なのかわからないで悩んでいる人もいるんだから。あなたなんか、両親が誰だか分ってるだけでも幸せというもんよ。」自分の心のどこかにある出生の疑惑を、ふと吐露してしまった思いがした。「へえ、そんな人がいる。」と典子は驚いたように言った。「そうよ、私の年齢の人なんかにはいるよ。戦争があって孤児になった人がいっぱい居たからね。」さすがに、私もそうよとは言えなかった。典子は初めてそんな話を耳にしたのか、しばらく黙って歩いていた。「母さんも戦争のせいだと二言目には言うのさ。父さんは、みんな俺が助けてやったんだって、いばってるんだ。みんな、俺は愛しているからいいだってさ。まるで、獣よ。そして、あの女たちは、応接に飾ってある翡翠の飾り物とおなじよ。」と、派手なつっかけを、わざと引きずって音をたてながら歩いている。「そんなこと言うんじゃないよ。誰だって悲しくも辛いことは或るものよ。お互いに相手が許せるようになると、大人かもね。」私は自分に言い聞かせるように言った。そして、姉さんかぶりモンペを履いて建設工事場で今も働く母を、思い浮かべた。いつの間にか、中華街を抜けて電車通りに出ていた。「先生なんか、幸せ過ぎて、うちの気持ちなんか分からんと。帰る。」と、典子は急に踵を返した。私は、典子の後ろ姿を複雑な思いで見送っていた。初夏の日はとっぷりと暮れて中華街は、華やかなネオンの海の中にあった。
えりの家
家庭訪問は、最終日を迎えていた。意識的に最後に回していた林田えりを、訪ねなければならない。学校には相変わらず席を温めにやって来ている。しかし、未だに一言も口を開かず、もっぱらこちらが一方的に話しかけるだけである。市電で浜口町まで行き、原爆資料館に続く長いだらだら坂を登った。葉桜に覆われている資料館の裏に抜けて細い坂道を下りていくと、目的のアドレスが目に留まった。木造二階建てに、ステンドグラスまがいの小さな窓が三つほど付いている二階に、狭い外階段が続いている。ドアには、小さなアンジェラスの鐘が飾ってあり、『スナック バー・アトム』と文字が浮かんで見えた。周囲はすっかり暗くなり街路灯がついていた。腕時計を見ると約束の時間を一時間ばかり過ぎていた。何となく気後れして足が重かったせいもあるが、今日は、生徒の家がバラついていて、電車やバスに乗る時間が多かった。外階段を上がって行って、ドアの前で服装を整え深呼吸をして、ベルを押した。中からドアが押し開けられると、アンジェラスの鐘が想像していた音色とは違う、ガラガラという乾いた音を出した。
「ああら、先生ね。待ってたのよ。やっぱりお店の方にしててよかった。さあ、どうぞ。」と、招き入れた。紫色のマニキュアとまっすぐに伸びている黒髪が、年齢にそぐわない
印象であったが、敗戦後、基地の町で溢れていた夜の女性を彷彿とさせた。「すみません、遅くなってしまって。担任の今田です。お邪魔します。」細長いカウンターを、十個くらいの足の長い丸椅子が囲んでいる。オレンジ色のライトに部屋が染まっている。
「こんな商売だから、えりの面倒なんて看られないのよ。一年だぶちゃって、びっくりしたわけ。あの娘がぐれるのも仕方がないんだけど、学校だけは続けるよう言ってる。私みたいになっていいのかって、脅迫してるわけよ。最近、あれほど反発してた子が、学校には行ってるから、私も驚きよ。私、麻子です。よろしく。」と、冷蔵庫から氷を取り出しコップに入れ、コーラーを注ぐとカウンターにポンと乗せて言った。
「がさつですみません。さあどうぞ。」麻子は自分もグラスにビールを注いで、カウンターに座った。「あつ、先生もビールでよかった?」「いいえ、これで結構です。失礼ですが、ご出身は東京ですか?」「出身は長崎、しばらく東京の品川に居たの。流れ流れ、また西の端の町へってわけよね。人間てやっぱり生まれたとこが、よかっさね。」「そうですね。私もそう思います。今日は遅くなってすみません。お仕事でしょうから、手短に。えりさんが学校で口を利いてくれないのでどうしたもんかと。」「ああそうね。いいのよ。口利かなきゃ無理して話すことはないから。あの娘、家でもそうしゃべらないから、話すの忘れたのかと思ったら、仲間内じゃ、よくしゃべっているだっていうから、心配ないよ。」紫色のマニキュアが、すうとカウンターの隅に伸びて灰皿とタバコを取った。「ちょっと、失礼、先生もいかが。」と一本口にくわえ、私の方にも勧めた。
「いや、私はやりませんので、 どうぞ。」「そう、真面目ねえ、昔は私もやらなかったけど、原爆は落ちるし、恋人は死ぬし、もうどうだっていいて。結局、堕ちに墜ちてあの娘の誕生っていうわけ。そう、あの娘の父親は、進駐軍で、私は現地妻ってわけさ。あの頃は、生きるためにゃ何でもやった。いい歳した女の孤児なんて、誰も助けてくれやせん。荒みきった気持ちの私にあの娘の父親はやさしかった。やさしさに飢えていた年頃の娘にとってみりゃ、一ころよ。でも、出会いはどうでも、私は、あの男を愛したし、生まれてきたあの娘を愛しいと思った。娘がそれを分かるにゃ、あと何年もかかるだろうけど、いいのさ。」「深入りしてすみませんが、えりさんのお父さんは、今どうしてらっしゃるのですか。」「ああ、きっと迎えに来ると言って帰ったきりさ。生まれはプエルトリコとか言ってた。たくましい男だった。先生、あの娘の髪の毛、父親譲りで天然なんだ。どうか、校則ってもんでいじめないでもらいたいのよ。」「分かっています。いつか、心を開いてくれて話ができたらって。」「無理だよ。あの娘、幸せな人見るとことごとく反発するようだから。」「幸せ、確かに。私、実を言うと、えりさんよりある意味では不幸せかもしれません。人は外見からはわからないもんですから。」と、言ってことばを切った。麻子のせせら笑ったような視線が宙をめぐって、沈黙の時間が流れた。「ムードがありすぎたみたい。」と、麻子が壁のスイッチを押した。急に部屋が明るくなって、壁のシミや色褪せたカウンターが、露わになった。「外見ね。意外と外見は真実よ。あら、先生に意見みたいなこと言って。お若くて私の娘みたいな感じで。」「いいんです。えりさんの気持ち分かる気がします。少しづつ話し合えるよう努力してみます。」「努力なんてしなくていいよ。私もサラを見せて生きることにしてる。男もとっかえひっかえさ。あの娘はこんな私を軽蔑してるのさ。わたしにゃ、今までの辛いことを忘れるにはこれしかないのさ。先生にや、分からんやろ。あんたなんて、大学まで行かせてもらって、親に何の文句があるっていうのさ。」奥の方で人の気配がした。「えりかい。帰ったのかい。先生だよ。」返事はなかった。「あれつ、帰ったのかと思ったら、違ったみたいね。」店の裏にも外階段があって、そこがえりの部屋だと、説明して、しばらく沈黙が続いた。そして、急に沈んだ声で「小さな家だけど、恋人が死んだらしい場所に近いから、もしかしたら夢の中にでも帰って来てくれるかと思ってね。医学生だったんだ。遺体もなくてね。だから、私も戦争中は純情な女学生で、国の戦争に何の疑いもなく協力していたわけさ。あら、いつの間にか、えりはそっちのけで私の身の上話になっちゃった。」気が付くと麻子の目が潤み、カウンターにはビール瓶が2本並んでいた。
「ママー、店まだかねえ、今日は、開店が遅かぞ。」と、外から声がした。「すみません。今、開けるからちょっと待って。」と麻子は、慌ててみ繕いをした。「すみません。お忙しいのについ居ずわってしまって。まだ、経験不足でえりさんのお力には、なかなかなれないのですけど、何か、辛いことがあったら、ぜひ、一緒に考えたいとお伝えください。」私はカウンターからバッグを掴むとドアを押した。麻子は、電気のスイッチを切り替えると、一緒に外に出てきた。バーの灯が届かない薄暗い草むらに、後ろ向きの男の姿があった。用を足している後ろ姿に、私はどこか見覚えがあった。「先生、えりのことはいいから。わたしや、反面教師には自信があるから。きっと、今度は卒業するよ。」と、言い切った。麻子は、尊敬語を使わなかった。それが、麻子の人生に対する開き直りにも感じて、私の心にずっしりと響くものがあった。我が子に一点でも多く取らせたくて、高価な品を届けるような親もあるかと思うと、麻子のような親もある。
坂を上り詰めて後ろを振り返ると、バー・アトムの二階は、電灯が明るく灯っていた。やはり、えりは帰っていたのだった。
クラブ活動・軽自動車の運転練習
夏休み身近になって、自動車運転練習場が手狭になって、学校から北へ10キロほどの自動車教習所の一角にあった。部員の若松敬子の父親が経営する自動車学校だった。理事長とどういう契約になったかは知らないが、だだっ広い運動場とは違い、坂道や車庫入れ、信号機まで付いていて、多少狭いが運転練習にはもってこいの場所だった。難点は、自動車の管理まではできないということで、毎日部活に、三台の軽自動車を学校から往復させねばならないことだ。ほっといても盗難などに遭いそうにもないシロモノだったが、すでに軽免許を持つ三年B組の若松敬子と、山口洋子と私で移動することになった。E組の民子も典子もえりもどういうわけか、自動車部に所属している。えりは相変わらず教室ではふてくされたているが、家庭訪問の後、幽霊部員だったのが毎日クラブ活動へは、嬉しそうに顔を出すようになっていた。三人は教室では仲がよさそうにはみえないが、部活では、三人で協力する様子がみえた。えりは、車の整備に興味があるのか、ボンネットを開けオイルの点検や水差しなど忘れずにやった。作業中に民子や典子に声を掛けられると頭を横に振ったりうなずいたりして応えている。時には一緒に笑ったりしていることもあって、以前より表情に明るさがあった。
何しろ、理事長がM社から、ただでもらったようなポンコツ車だから、運転をする時間より、ボンネットを開けたり閉めたり、車のお尻を押したり引いたりする時間の方が多かった。それでも生徒たちは、手足の操作で大きな物体が動き出す面白さに、誰も退部するような者はなかった。敬子と洋子は家業の手伝いで、普段も乗り回しているらしくとても手馴れていて立派なアシスタントだった。一台に5,6人くらい配置して指導者の指示に従って、クラッチとブレーキ、アクセルの操作を繰り返す。民子が急に深刻な顔で言った。「先生、私、運転の夢を見るんです。それが夢のなかじゃ、車が動かないか、突然猛スピードで走るかなんです。だから急に飛び起きたりして、、、」「敬子さんに叱られてばかりだからじゃない。」と敬子の方を向いて言った。「だって、民子は鈍かとです。この前もあの壁に激突しそうで、びっくりしたとです。」と敬子。「敬子が、そばでぎゃぎゃ言うから、かえってカアと上がってしまうとです。」と民子が返す。
「まあ、まだ仕方がないよねえ。練習者は、補助ブレーキが助手席についているから大丈夫だけど、本格的に乗る時が来れば、そんなものはないから、早う体に覚えこませなきゃね。」もし、生徒が一人でもクラブ活動で事故を起こしたら活動は即停止だろうし、場合によっては、辞職もありうることだと改めて思うと、妙に緊張した。軽自動車部を持つ女子高は市内ではここだけで、私立女子高として、確かに生徒集めの強力なセールスポイントだった。長崎は坂が多い。それも急な坂だ。視覚的には垂直に見えるひどい坂もある。学校に続く坂が、そうだ。ポンコツ車は時としてエンジンに力がなく、会えなく坂の途中でストップしてしまう事がある。そんな時こそ経験者の見せ場でもあるが、マシンの能力に限界があって、他の車に引っ張ってもらわねばならない。生徒二人が乗る車は、比較的まともなのであまりトラブらないが、私が乗る車は時々坂を上がるのに難儀する。
夏休み前の練習日のことだ。午後七時過ぎ、クラブ活動を終え、いよいよ車を丘の上の学校へ運ばねばならない。えりも、典子も民子も学校まで一緒に行きたいから乗せてくれという。明日から休みという気楽さもあって三人を乗せて、三台目のしんがりから出発した。敬子と洋子がそれぞれ運転する車は、快適そうに走る。市街地は比較的平坦だから問題はない。繁華街を順調に走り抜け、いよいよ学校に通じる坂を上り始めた。ギヤをローに入れ慎重に上る。坂の真ん中ほどに来た時、四人の体重に耐えられなくなったのか、プスーという音がして動かなくなった。幸い見通しのきく坂だったから、ギヤをニュウトラルに入れ、ズルズルと坂を下りて行った。後ろの席の三人が「キヤー」と悲鳴を上げる。どんどんスピードを上げて降りていくというか落ちていく自動車。やがてエンジンが、ブーブーと勢いづいてきたから、素早くギヤをローに入れ坂を上り詰めた。車を降りた時、三人とも青ざめた顔をして私を見た。「なあに、びっくりした、大丈夫だよ、あんた達、ちょっと重すぎたんじゃない。」と、私のことは棚に上げて言った。すると、体重なら負けない横綱級の私を見て、三人は、くっくうと含み笑いをして、堪えきれず大笑いになった。「典子、必死で後ろ向きになってシートにしがみついてるんだもん。それ見て死ぬかとおもったよ。」と民子が言った。「あんただって、頭抱えて小さくなって震えていたじゃなかね。えりはきゃとも言わず、ただ後ろ見てるだけ、なんで。私、あの細い道からはみ出して転落するかと思ったよ。」と典子。
えりは、ニヤニヤとし表情を崩していたが、その笑みが今まで見せたこともないような明るさがあった。
「ごめん、ごめん、私はしょっちゅうやってるから、つい何も言わずやってしまったけど、びっくりさせてしまったみたいだね。」「でも、さすが―」と民子が感心したように言った。「あたぼうよ。四人で心中なんて嫌なこった。」私は、えりの表情に、夏休み後半に集中してやる部活の中で、彼女との触れ合いができるのではないかと、期待した。
軽自動車運転免許試験の後で
猛暑の中での練習は思ったより体にこたえた。生徒を預かっての自動車運転の練習は、何が何でも事故を起こしてはならないから、細心の気配りが必要だった。自慢の体重六十二キロから、あれよあれよと五十キロ半ばまで落ちた。しかし、傍目にはデブが普通になっていくのだから、何の同情もしてくれないし、むしろスマートになっていくのに感嘆の視線を送ってくる。柄にもなく胃がキリキリ痛むこともある。最も胃が痛むのは、自動車部の活動ばかりが原因ではなかった。家庭訪問で実にいろいろな境遇の生徒たちがいることを初めて知って、昔から国際都市と言われる長崎の裏に織りなされるさまざまな負のドラマが、自分のことでもあると思えてきたからだ。かって、祖母が母に向かって「どこの馬の骨かも分からん子、、、」と私を言っていた場面が、急に大きくなって、私の意識の中を占領し始めている。母は、複雑な事情を私に感じさせまいと注意深く育ててきたに違いない。母の強い要望で私は受験戦争に参加するコースをとったから、世間の雑音をキャッチできなったのかもしれない。戦後、母は女性が生きていくためにはさまざまな差別を超えなければならないことを経験し、私を大学まで進学させる決心をしたようだ。母は、私のルーツをかたろうとはしない。私もそれを追求する勇気がなかった。母は、「あんたは、私が育てた私の子、それで何の文句がある。」と、突っぱねる。突っぱね方が尋常ではなく急にぶっ倒れたりするから強くは問い質せなかった。母がそう意固地になればなるほど、本当のことが知りたい衝動に駆られるのだ。人は、ルーツがないと、精神的に安定しないようだ。霧の中をさ迷っているような感情を抜け出したくて、猛スピードで運転でもすれば、すっきりできるのかもしれないと思うこともあって、目の前で生徒たちがもたもたと軽自動車のハンドルを握っている姿に、苛立つのだ。「クラッチ、ほら、ブレーキ遅い!」などと、必要以上に大声を出している自分に気が付いてはっとする。夏休みの後半ほとんど一日中運転練習をして、大村自動車試験場試験場へ乗り込んだ。汗と土埃とポンコツ車の油まみれの部活だった。最終学年の高校三年生というのに、進学する生徒はまれなので、ほとんどの三年生が部活に参加した。活動に参加した二十三名中二十名が合格で、まあまあの結果だった。えりも典子も民子も無事合格した。三人とも一癖ある生徒たちだが、特訓中は素直に活動に参加して何もトラブルを起こさなかった。二学期が始まってクラブの生徒たちは、みな健康そうに日焼けした顔を揃えた。が、民子だけは姿がなかった。一週間過ぎても民子は現れなかった。私は、放課後民子の家を訪ねてみた。家は掻き消えていて、十坪くらいのじめじめした広場になっていた。近所の人たちに行方を尋ねたが誰も知らなかった。突然不動産屋がきて、ブルドウザを入れ、トタン屋根と薄い板切れの家はあっけなく消えてしまったという。民子家族が居なくなる前、母親が病気で倒れ民子が介護していたようだと、隣の主婦から聞いた。それからやっと秋風が吹き始めた頃、えりが私に報告した。
「先生、民子を見たよ。軽のライトバンを運転してた。荷台にOデパートの品物をいっぱい積んでいた。元気そうだったよ」浜町の交差点で信号待ちをしているライトバンに乗っていたというのだ。二学期になって、えりは人が変わったように明るくなり、友達とも口を利くようになっていた。「そう、きっとこの町のどこかに居るのよね。もうしばらく待ってみましょ。」と受け流した。「きっと、学校に帰ってくるよ。」と、えりは、部活動中髪をショートカットにした襟足を撫でながら言った。「また、何かあったら教えてね。お母さん元気。」「うん、あの人は、獣だから病気なんぞ、しないよ。わたい、もうあの人のことなんかどうでもいいのさ。わたいは、わたいさ。」「「そんなこと言うもんじゃないよ。おかあさんだって、辛いことがいっぱいなのだから。」「うん、こんな風になるなってさ。アメちゃんに体売って、その結果がわたいよ。でも、そのアメ公を愛していたんだって。」
「そう、よく話してくださったねえ。お母さんも辛かったと思うよ。優しくしてあげて。」
「優しさなんか、あの人には似合わないさ。わたい、心入れ替えて高校だけは卒業して自立する。今、あの人のコレ、ここの理事長。そいじゃなきゃ白紙で出したここの入試に、わたいが受かるわけないよ。それがいやで反発していたけど、今は考え方を変えたのさ。この前先生が、家庭訪問で家へ来た時、戦争をくぐってきた子供は自分がどこで生まれ誰なのかが分からないのがいっぱいいるって言ってたのを聞いて、どんなうさんくさい親だって、本物の親ってわかっているだけいいかもってさあ。」「そうよ、そうなのよ。よかった。あんたがそうやって話すようになってくれて、ここへ就職した甲斐があったよ。頑張ってね。」
誰も居なくなった放課後の教室の窓から、長崎港にゆっくりと入ってくる白い船を目で追いながらえりと話した。帰りがけえりが言った。「典子もわたいとよく似てるんだ。あそこは親父だけど、だらしがなくってさあ、この前、また弟と妹が増えたんだって。わたいは、ふっきれたけど、典子は結構悩んでいるみたい。」と、えりは言い残して風のように去って行った。私は寂しかった。生徒はやはり信頼してくれてはいない。それどころか、あれほど目を掛けてやった民子は軽免許取ったとたん、何の連絡もなく消息まで絶ってしまった。そういえば、バー・アトムの前の草むらでのあの後ろ姿は、まぎれもなく理事長だ。男の用を足す姿が鮮やかに蘇っていた。
私は、朝鮮人
運動会や遠足などの行事が終わって、多忙だった二学期もそろそろ終盤に入って来ていた。えりがクラスに溶け込んで、典子も学校では何事もないように振舞っていたから、学級運営もあまり問題はなかった。しかし、民子の行方は知れず、学校では月謝が滞っているので、そろそろ除籍しようかという雰囲気になっていた。十二月初めに行われる期末テストに現れなければ、卒業は無理だ。そして、とうとうその期末テストの初日が来た。朝のホームルームの時、先ず民子の席に目をやったが、やはり姿はなかった。それにしても、何の連絡もしないというのは、どういうつもりなのかと、腹が立ってきた。真面目でしっかりした民子や、ひたすら働き続ける芯の強そうな母親にはありえないことだと思う。何か重大なことが起きたのかもしれない。警察に捜索願を出してはと、校長に提案したが、学校の名誉にかかわると動かない。試験最終日のことだった。自分の担当のテスト問題の訂正に各クラスを回る。眼鏡をかけ忘れたまま各教室を回るのだが、頭の中は、民子のことでいっぱいでまた失敗した。自分のクラスの引き戸を開け、先ずは民子の席を見る。やはり居ない。解答欄の訂正を伝え、質問を受け次の教室へ移動する。引き戸を開けると生徒の後ろ姿が並んでいる。生徒が後ろを一斉に振り向き、試験監督の松井先生がきょとんとしているようだ。「あつ、失礼、また間違えた。」と慌てて後ろ手に引き戸を閉めた。生徒たちの笑い声が起きた。職員室に戻ると、ドジったことがもう届いていた。隣席の柴山先生が、笑い転げていた。「仕方ないですよ。目も近いし、心も暗いし、笑っていられる先生は良いですよ。」と冷たく言って机に付いた。と、教頭が手招きしているのが見えた。急いで行ってみると、民子が先ほど来て退学届けを出して帰ったという。「先生に挨拶するよう言うけど、会わせる顔がないとか言うて、そのまま帰った。じゃが、きっと会える日が来るって、そんなことを言うとった。今までの月謝も払えんというから、退学は仕方なか。本人は元気でいるからと伝えてくれと言うとった。」と、淡々という教頭が恨めしかった。「そうですか。担任としての責任が果たせず、すみません。」と、ぶっきらぼうに答えた。「いやいや、そう難しく考えんがよか。世の中なるようにしかならんから。」と、達観したように言う。「ええ、まあ」と、うわの空で答えながら私は、民子にも自分にも腹が立っていた。
その夜のことである。
母が、珍しくべろんべろんに酔って帰ってきた。母は、年齢的にも肉体労働はやめてほしいという私の申し出を無視して未だに建築現場で働き続けている。真っ黒に日焼けした顔には、皺が目立ってきているが、手足には硬い筋肉がつき、ちょっとした男には負けないような強靭さを窺わせる。私は学校での教頭とのやりとりで、虫の居所が悪く、母にあたりちらしてしまった。「何よ。女のくせに酔っぱらって。男ばかりの職場だからと言ってもみっともないよ。」「酔って悪かったね。あんたの稼ぎで飲んでるじゃないから、ほっといてくれ。」「誰が私の金で飲んだって言った。」「ぐずぐず言うな。誰のお陰で大きくなったと思ってんだい。どこの馬~。」と、言いかけて母は、はっとしたように言葉を切った。「そうよ。どこの馬の骨だか分らんって、小さい頃お祖母ちゃんが言っていた。いったい、私は何なのよ。」と、勢いに乗って私は母へ切り返した。話が思わぬところへ発展していく。今までこのことで、母を追求したことがなかった。母も意識して触れないようにしてきたはずだった。しかし、母の心の底には、重い私のルーツが沈んでいるに違いなかった。「あんたは、私の子よ。それがどうした。」それまでろれつが回らなかった母が妙にはっきりした口調で言った。「うそばっかり。母さんも民子も嘘つき。民子はほんとに朝鮮人やけん仕方のなか。ばってん、母さんは、日本人~。」と言いかけた時、それまで酔いで朦朧とした居たような母が、いきなり平手打ちした。「朝鮮人だからって、何さ。お前は、朝鮮人をバカにしてるのか。お前は、紛れもなく朝鮮人さ。それでも、朝鮮人を軽蔑すんのか。」その口調の激しさに面くらいその言葉に、耳を疑った。「私が、朝鮮人、、、、。」あとは言葉にならなかった。
朝鮮半島出身の親を持つ生徒が民子のほかにもいるはずで、生徒の前では、それを当然のように受け入れ、差別のない人間を演じている自分がいて、心のどこかでは、世間の一般の「朝鮮人への偏見」を持っていることに、我ながら驚いていた。母は、顔を真っ赤にして仁王立ちになっていたが、やがて、事の重大さに気付いたのか、母の方が顔を覆って泣き始めた。「ごめん。死んでも言うまいと思ってた。今でも、労働の激しか建築現場で働くのは、あっちの人(朝鮮人)が多かけんさ。少しでもあんたの国を理解したいと思うから。そいでも、あんたのことを、よその子とは思ったことなか。初めは同情もあった。ばってん、あの戦後の物のなか時、必死で育てるうちに、そんなもんは、どこかへ行ってしもうた。生まれてすぐ逝ってしもうた実の子が、蘇って来てくれた思うて、かわいかった。」すっかり酔いがさめた母は、何もしゃべらず壁に寄りかかっている私に向かって、原爆が投下された後の私との出会いを、語り始めた。
出会い
母の話は、1945年8月11日の私との出会いだった。この日は私の誕生日になっている。その頃母は、長崎の市街地から東南に山越えした茂木の実家に居た。庭先から眼下に橘湾が広がっていて、朝夕、太陽で茜色に染まる海を眺めながら、丈夫な子を産んでくれと戦地へ旅発った夫のこと、せっかく生まれたものの、食糧不足の中、胎児の育ちが悪かったのか、生れたもののわずか1週間もせず死んでいった子どものことなどを思う毎日だったが、実家の温かい思いやりで、やっと悲しみから少しづつ立ち直ろうとしていた。長崎では、9日の原爆投下で傷つい他人々が、この小さな村にも運び込まれていた。村では、緊急に救護隊を組織して救護にあったっていた。母もそれに加わって炊き出しや、簡単な傷の手当てに追われていた。11日の朝、母は、実家からにわか仕立ての救護所に行く途中、琵琶の木が立ち並ぶ草むらから、「アイゴー、アイゴー。」という激しい女性の鳴き声を聞きつけた。急いで駆け付けてみると、琵琶の木の根元に身を委ね、赤ん坊を抱いて一人の女性が、必死に声を絞り出していた。髪の毛は、きれいに前分けされていたが、頭全体の髪の毛は逆立ったで、左肩から背中にかけて火傷を負い、意識がほとんどなさそうに表情で、ただ声だけは必死に絞り出している様子だった。赤ん坊には、幸い傷一つなかったが、2,3日何も与えられなかったのか、泣く気力もないほどだった。母が、そっと赤ん坊を抱き取ると、それを待っていたかのように女は息を引き取った。赤ん坊は汚れて茶色っぽくなった手ぬぐい二枚で包まれているだけだった。小さな両手は、麻痺しているかのように硬く握り締められていた。右手の握りこぶしを無理に開いてみると、木綿の白糸がくるくると巻かれたボールがコロッと、転げ落ちた。母は、それを気に留めず立ち去ろうとした。しかし、その糸玉の白さが目に染みて拾い上げると赤ん坊と一緒に持ち帰った。赤ん坊は女の子だった。名前を愛子(アイゴー)と名付けた。母は、生理的に張ってくる乳房からわずかな母乳を絞り、足りない分を重湯やトマトの絞り汁などを与えていると、赤ん坊は少しずつ元気を取り戻してきた。家族は母の気持ちを察してか黙認していた。やがて日本の敗戦が決まり、日本中は荒廃し、広島、長崎は、原子爆弾で完璧に破壊され、放射能で汚染された市街地が広がっていた。辛うじて生き残って路上に投げ出された子どもたちは、大人の保護もなく死に絶えていくか、孤児となってさ迷うしかなかった。敗戦後三年、昭和四十八年になって、米国の「少年の町」を模した孤児院が長崎にも開設された。母の両親は愛子を孤児院に入れるよう勧めたが母は従わなかった。戦争に行ったきり行方がしれない夫の実家へは、愛子が生まれたと即報告し籍に入れてあった。夫は、幸か不幸か戦後二年目の春帰国して来た。母は、愛子について真実を話したが、戦場で心が荒んだ夫は理解してくれず、母が不倫で産んだ子だと許さなかった。母は、夫の実家を出て、愛子と生きることを決め離婚した。それから、ひたすら私を育てたと言うのだった。
話は終わった。
「それで、死んだ女の人はどうなったの。」と、私はやっと口を開いた。
「あんたを家において琵琶の木の下に引き返したら、もう遺体はなかった。あの頃はあちこちにそんな遺体があったから、村人が集めて広場で焼いたもんよ。だからどうなったか分からんと。」
「で、何で、私が朝鮮人?」
「初めは私も分からんやった。ところが、飯場で知り合った半島の人に聞くと納得した。困ったり悲しかったりする時、半島では『アイゴー、アイゴー』って言うそうな。あんたの実のお母さんは、自分の命を懸けてこの子を助けてと、呼びかけていたのよ。もう一つは、糸玉たい。半島では、生れたばかりの赤ん坊の首に、白い糸をゆったりと幾重にも巻いて、その糸のように長寿であるようにと願うそうな。戦争中だから、首に巻くほどの白い糸はなく、小さなボール球にしてあんなに握らせたとよ。自分の命は絶えかけていたのに、子どもは何とか助けたいと必死だったとよ。あんたの誕生日は、きっと原爆投下の前やろ。かわいそうに、産着もなくて、糸だけは繕い物するのに手元にあったとやろたい。」
「ふうん、その女の人は朝鮮人としても、相手は誰だか分らんやろ。その人、レイプされたかも。」
「それはないよ。糸玉を握らせて長寿を願うのだから、きっと大事な子どもだったに違いなか。」
「ふうん、で、どうしてそんなに一生懸命私を育てたの」
「可愛かった。実の子を亡くし、あんな食糧不足の時でも、おっぱいの張るとたい。人間の生理というのは不思議なもんで、そんなおっぱいをあんたが、ぐいぐい吸ってくれるとたい。気持ちのよかとさ、そして日々あんたも元気に育ってくれて、何にも代えられんと思った。それに、半島の人たちへの償いの気持ちもあった。でも、そんなことはどうでもよかさ。ただ、かわゆうして。」と、母は幾度も目じりを手の甲で拭っていた。私は驚きが大きかったせいか、妙に冷静で人ごとのように感じていた。一方で母に謝らなければならないと思ったが、素直に口に出せず、また黙り込んでしまった。と、母が言った。
「近いうちに、この家を出て自立して生活しなさい。もう、私もくたびれてしもうた。のんびり老後を楽しみたいから。これ、命令だからね。」と言うとさっさと、自分の部屋へ入って行った。
憂鬱な日が続いた。母は、口を利かずなかなか許してくれそうになかった。私は、あの事があってから教員失格だとはっきり認識していたから、毎日学校へ通うのが辛かった。
やっとの思いで二学期の終業式を終えた。冬休みは短いこともあって、クラブ活動は休みだ。典子が、相談があると言って終業式の後、職員室へ来た。急速に仲良くなったえりが、ついてきた。内心誰かに相談したいのは、私の方なのだと思いながら校庭に出た。片隅にポンコツの軽自動車が並んでいる。急にドライブがしたくなって私は二人を誘った。性能が一番よさそうな車に乗って、坂を下りて、港の方へ走った。典子が言った。
「うちの父親、また愛人作ってさあ、それがなんと、民子なんだよ。あいつ、親父の子を宿しているんだって。冗談じゃないよ。うちと同じ歳なのに母さんなんて呼べないよ。親父、かわいそうだから面倒見るんだって。あいつ、昼間配送のアルバイトして、夜は親父の行きつけのバーで働いてるみたい。もう、最悪だよ。この前我慢できず民子を捕まえて、お腹の子を降ろせて言ったら、あいつ、何と言ったと思う。”私、あんたのお父さんを愛してるから“ってさあ。わたい、死にたいよ。」
「いいじゃん。民子があんたの母親になれるわけないんだから。」とえりが言った。
「だって、生まれてくるのは、異母弟妹ってことだよ。」
私は、運転しながら頭が混乱していた。そんな話ってあるのだろうか、何がこう複雑にさせるのだろうか。思わずアクセルをグングン踏んでいた。
「先生、スピード出し過ぎだよ。死んじゃうよ。私まだ死にたくないよ。人生観変えて、卒業したらアメリカの父親に会いに行くのだから。」と、えりが叫んでいる。三人とも世間から見れば真面な「生」の受け方ではなかったのだ。しかし、まともな生って、何なんだろう。母のようにそんなことはどうでもいいと言えるのは、自分のルーツは確実に分かっているからなのだ。頭ではそう割り切りたいと思うが、どこかで自分のルーツを知りたい知らなければ落ち着けないという想いもある。
「われわれ いずこより来たらん
われわれ 何者ならん
われわれ いずこに行かん
ゴーギャン 」
この疑問に人は誰も答えられないというが、私のようにどれ一つとして自信もって答えられないというのは、稀なことだろう。
もう、目の前に海が迫っていた。後部座席の二人が抱き合って叫んでいた。今にも車が海へ飛び込もうとした時に、急にストっと止まった。ガス欠だった。大きく前のめりになって我に返った。
あれから、二十数年が経った。典子は、自分の父親を反面教師にして、まともな結婚をして幸せな家庭を築いている。えりは、父親を頼ってアメリカに行き現地の大学を卒業して、今もアメリカで活躍している。民子は典子の父親から自立して、恵まれない子供たちの保育園を経営し、自分の子と同時にたくさんの子どもたちを育てている。私は、教員を続け大事な母親を看取り上京した。改めて日本語教師の講座を受け、日本語学校で中国人や韓国人に日本語を教えている。母の私との出会いについての話を聞いた後、混乱した頭で学校のポンコツ車を運転し、二人の生徒とを乗せたまま海へ飛び込もうとした時、車がガス欠で突然止まっていなかったら、私は、今ここに居るはずはなかった。生来のドジが、功を奏したという訳だ。
一九九一年四月二十九日、第41回世界卓球選手権大会で、中国の高選手の打ち返したピンポン玉が、ツイと外れた。スタンドの観客が一斉に立ち上がった。「マンセイ、マンセイ、マンセイ、」と言う連呼が幕張メッセの会場を揺るがす。南北朝鮮半島統一チームコリアの応援旗がさざ波のように振られた。表彰式では、国家の代わりに「アリラン」の演奏になり、会場では、アリランの大合唱となった。
「アリラン、アリラン アラーリーヨー アーリラン コーゲロー ノーモガンダー
ナルルー ポリゴ カシヌン 二ムン シムニド モオツカソー パルピヨンナンダー」
私も覚えたてのアリランを、意味が分からないまま会場の合唱に合わせて精一杯歌った。この夏、私は長い複雑な想いを抜けて、日本語教師として私の祖国へ旅立つ。育ての母が死ぬ前に、ルーツが知りたかったら、自ら行って確かめるように言ってくれた。生まれてたての私が握っていたという糸玉が、どこにつながっているのか手繰り寄せてみたい。恐らく実の親のことは、何にも分からないだろう。忌まわしい歴史の一端としてあった以外は。が、それだけでも育ての母が強く言っていた「ルーツに拘らず、地球の子として生きる」スタートができるかもしれない。私が愛する夫は日本人、二人の娘はダブルというのだろう。彼らは四十代半ばの私に再スタートを勧めてくれた。
隣の婦人が、アリランの歌を歌いながら、私の手を握りしめた。ぬくもりが、どこかで出会った懐かしい暖かさだった。朝鮮半島の人々も、こうしてアリラン峠を越えようと
している。そして私も。
完
註 この話は約半世紀前に書いた作品です。内容はフィクションですが、国際都市、長崎にはありうる話かもしれません。
鶴文乃
平和を愛するみなさまへ
猛暑お見舞い申し上げます。
今年も広島、長崎の被爆地に、つらい思い出の原爆投下の日がやってまいります。私たちは,19年前から核兵器の恐ろしさを国内外に、「ばってんネットワーク」の会報を通して国内外に知らせてまいりました。この72年間被爆者は「核なき平和を訴え続けてきましたが、国はその想いに寄り添うことなく、先日の国連の「核兵器禁止条約」の採択にも参加しませんでした。国に期待できない以上、世界中の「平和を願う人々」のネットワークに期待するしかありません。そこで、核兵器使用は、長崎で終わりにしようと8月9日午前11時2分に、平和を願って一振りの鐘を鳴らそうと呼びかけています。
みなさまの自主的なご参加をお願いいたします。教会や寺社の鐘が、二度と兵器に利用される時が来ないよう、平和の鐘を鳴らしましょう!!
「ばってんネットワーク・平和の鐘・一振り運動」http://peacebell.net/、ホームページから、コメントをお寄せください。この運動は強制ではありません。個々の自主性を大事にしたいと思います。みなさまのご参加を期待しております。 不一
2017年7月11日
代表 鶴 文乃・ 事務局 河野和子
■
先月11月27日、最後の「ほっとコンサートX」を、つくば市のイノベーションプラザで、午後1時半から開催しました。会場にはイベントが多数重なる中、参加してくださった約60名の人たちが、広島、長崎、福島についての朗読に、耳を傾けてくださった。
このイベントは10回目になり、10年間休みなく開催してきましたが、遠くは愛知県の瀬戸市や長崎市からの知人も駆けつけてくださって、小さいイベントですが、大きな広がりも感じました。昨年,東京で長崎、東京、千葉、茨城の朗読グループによる「合同朗読祭」を開催できたのも、この活動がもとになりました。
朗読とミニコンサートで構成し、重いテーマの朗読を聴いた後、ほっとしてもらうためにミニコンサートを加えたものですが、どちらも好評でした。
小さなイベントでそれほどの効果があるとは思えませんが、最後にあたって、これからは、参加者のみなさまに、日本人として広島、長崎、福島を伝えてくださるようお願いし、終了しました。これまでのみなさまのご協力に感謝します。
今年の「平和の鐘」は大宝八幡宮で
昨日、下妻市にある大宝八幡宮を訪問しました。ここは関東最古の八幡さまとして知られています。不思議なご縁で、今年の8月9日、午前11時2分に平和の鐘を鳴らさせていただくことになりました。この神社の鐘楼は、明治初期神仏分離政策により取り壊されたものが、平成になって復建されたものです。神社に鐘楼は現在珍しく、神仏混交の歴史を彷彿とさせます。「平和の鐘、一振り運動」は、誰でも参加できる平和活動として提案したもので、必ずしもお寺、神社、施設などが実行してくださるわけではないのですが、「誰もが勇気を出して、平和の鐘の趣旨を伝える行動」に、目的があります。
平和運動といえば、特殊な団体や経験者だけの活動と思い込まれているところがあり、なかなかじっくりと「平和」を自分の問題として捉える機会がありません。この運動もやはりイロがついているのではと警戒される傾向があります。
もともと、もっと、「ヒロシマ、ナガサキを海外に知ってもらいたい」と海外生活の中から想い、2006年から「ばってんネットワーク」で、約20カ国の知り合いや、学校、図書館などに呼びかけたものでした。1年後、国内こそ必要だと言われ、国内にも呼びかけています。自分が生きる地域で、昔からある寺社、あるいは学校、施設など、鐘やチャイム、太鼓を一振りして、核戦争はナガサキを最後にし、核なき世界を目指そうという想いを共有する機会になればと思います。大宝八幡宮さんとのつながりは、今、ドイツでガラス作家として活躍中の祥さんのご実家がこの神社ということでした。祥さんを紹介してくださったのは、国際的な活動をしている二人の友人です。
国内→ドイツ→国内を経て、この夏の平和の鐘が鳴ることに感動しています。神社に働きかけても、なぜか冷たく追い返されることが多いのですが、この度、すんなりOKしていただいのは、やはり仲介に立ってくださった方々の日ごろからの信頼があったからだと思います。この夏、大宝八幡宮の周辺の人たちと、平和を祈って鐘を撞くことを楽しみにしています。この神社の附属保育園は、ユニークな保育で全国の保育園の関係者の注目の的だということです。
置き去りになった犬たち
昨年、原発事故で、置き去りになった動物たちの小さな写真展がありました。感じたまま詩にしました。これを英文で海外に発信したところ、海外でひろがってます。
つくば市でも何度か朗読してくれました。私に出来ることは下手でも文字で訴えること。良かったら皆さん、この詩を使って、もう忘れ去られようとしている原発問題、もう一度考えるきっかけにしてください。
少年と犬 鶴 文乃
( 福島原発事故によせてー2)
散歩に行くと、ぐいぐい僕を引っ張ったシェーパードのマーク
シャープな顔立ちと背中にすいっと通った黒い毛並み
まるでウルフのようだった
僕が叱られて泣いていると、ぺろぺろと涙をなめてくれたやさしい犬
川底の石ころが透けて見える川面に、雪解け水が流れ込み
川岸に柔らかな新芽が出始めた、2011年3月11日午後2時46分
大地が揺れて、原子力発電所が壊れた
僕は悲しい別れをひたすら隠して
笑顔でマークの鎖を解いてやった
うれしそうに走り回っていたお前
気がついたら、空っぽの家
捨てられたマーク
あれから、お前は何を食べてどこに居るのだろう
この一年半、お前のことを忘れたことはない
頼むから何とか生きていてくれ
今度巡り合った時、お前が怒り狂って狼となって、僕に歯向かってきたとしても
それは仕方がないこと
とにかく、僕はマークの居る故郷に帰りたい
それが叶うなら、エアコーンも電子レンジもテレビもいらない
例え不便な原始の生活になっても、僕はかまわない
そして、きれいになった空気を胸いっぱい吸って
マークと一緒にあの野山を駆け巡りたい
その時まで、マークよ、生きていてくれ!
(置き去りされた犬たちを見て、2012年9月28日記)
筑波大生の平和イベント
1月16日、つくば市にあるpoco a pocoという美容院さんで、午後6時半から、「新しい勇気を持とう〜これからの生き方を考える夜」というテーマで、筑波大生の男女二人が中心になって、平和イベントが開かれました。タイトルは、長崎市で長い間、「長崎の証言の会」で活躍され、昨年の2月、残念ながら亡くなられた濱崎均先生の辞世の詩「新しい勇気を持とう」という題名からとってくれました。これは福島原発事故を濱崎先生が重く受け止め、「核を封じ込める勇気を持とう」と呼びかけた内容です。昨年の11月18日にシニア世代が開いた「朗読とミニコンサート」に参加してくれた恭平さんと、萌さんがもっと、多くの学生と想いを共有したいと、それから2ヶ月足らずで企画開催したものです。
face bookであっという間に40人近くの学生を集め、それにシニア世代の私たちが加わって、美容院は満員でした。この美容院の店主も積極的に地域の人々の出会いの場として使ってもらうことを、喜んでいるという奇特な人です。
実を言うと、昨年の11月の時は、若者の参加を促がしたいとわざわざウイークデーから日曜日にし、場所もつくば市の真ん中にあるサイエンスインフォメーションに替えての公演でしたが、結果はおじさんおばさんがほとんどでした。
少々がっかりしたスタッフに、この二人の学生が1月に改めて企画したいと提案し、あれよあれよ16日の開演になりました。朗読は、長崎原爆、福島原発、シベリア抑留などを扱った少々重い内容の詩の朗読、その後、「あなたの大切なもの、好きなもの」というテーマから、それを守るにはという生き方まで広がるしゃべり場、頭に白髪が目立つおじさん、おばさんも若い学生さんの中に入って、しゃべりました。そして、最後に学生さんたちのアカペラグループの、元気で明るい歌声で会場の雰囲気はほぐれ、最後は店の中いっぱいに手を繋いでの合唱となり、感動の中で終りました。
はっきりは言えませんが、この夜参加した人たちは、「きっと、何か感じ、これからのことを考えるきっかけ」になったものと思います。face bookで短時間で多くの人を集められる若者に、おばさんたちは、人海戦術でよく人が集められますねと、言われてしまったのには、苦笑。若者パワーに敬服です。案外日本は大丈夫!の感じがした嬉しい時間でした。
大学入学試験に哲学を
2013年、新しい年がきました。
世の中は、「あけましておめでとう」というのが常識でしょう。私は、あまり祝う気持ちにはなっていません。
ほんとに祝えるには、これから国民一人一人が、政治に自覚をもって参加することだと思います。先の選挙でも若い年齢層の投票率が低かったそうですが、未来がある人こそ、これからの社会をどうするのか考え、積極的に行動することが必要です。「ではの神」と海外生活経験者は揶揄されるけれど、フランスの高校生は、教育制度が改正される時、全国的なデモをし、改悪を止めた。日本でも選挙権を18歳にしようという意見もあるようですが、いまのままの若者の政治への意識の低さでは、それこそ国の方向が、とんでもない方へ行くかもしれません。これは、若い人の責任ではなく日本の学校教育に政治を考え語らせることは、ご法度的なムードがあるからだと思います。
戦後の教育が、愛国心を失墜し家庭崩壊を招いたと、新政権は憲法改正や教育改革もするという。しかし戦後の長い間政権を執ってきたのは、保守自民党の流れであり、それが失敗だとすれば責任は自らにあると言えないでしょうか。
フランスでは、学校教育に哲学が組み込まれて、常に人生について考える訓練がなされているという。教育改革というと戦前の愛国心教育や家族制度を持ち出したがる政治家ーそれも戦争中も知らない若い人が居るのには、驚いてしまいます。改革するのなら、規則のような小手先の改革でなく、人々の人としてどう生きるかの心の改革にしてもらいたいと思います。フランスのバカロレア(大学入学資格試験)には、文系、理系とも哲学が必須で、「人間は死について学ぶ必要があるか」、「知識は創造の妨げとなるか」などの問題が過去にありましたが、20点満点で、どんな優れた回答も満点はとれないそうです。神様だけが満点を取れるというウイットもある。しかし、これはフランス人のほとんどが、この問題に真剣に取り組むというシステムになっているのが、すごいと思います。日本も1月の統一大学受験問題に、哲学を必須にしてみたらどうでしょうね。憲法改正するなら、その導入後10年くらいにしてはどうかしらね〜。