懐かしい母校へ

戦時中長崎の郊外滑石(なめし)に疎開し、西浦上小学校滑石分校から滑石小学校へと変わる時代に通った学校を訪問しました。それは、「1945年 夏 長崎 それからー角川学芸出版」を上梓する前、遠くなった記憶を確かめるため、滑石小学校の校長先生に連絡を取っていたので、ご挨拶に行きました。
校舎に入ると、保育室が目に入りました。小学校には珍しいと思いながら、校長室に向かうと、作業服姿の校長先生に廊下でお会いしました。約束の時間より私が少し早くつきすぎ、先生はちょっと農作業でもと、校庭に行かれるところでした。初対面でしたが、ずっと昔から存じ上げているような親近感がありました。
 保育室は、授業参観の時、幼子を連れた若いお母さんが、安心して上の子の授業参観ができるように用意したものだそうです。保育は地域の方々のボランティア。こうすることで、小学校と地域の絆が生まれるということでした。
 農作業は、先生がお花など植物を率先して育てていて、それを生徒たちが自発的に手伝うようになったそうです。けして強制はしないということでした。

こんな校長先生がいらっしゃる母校は、きっと素晴らしい教育が実践されていると確信したものです。

戦後、この小学校には、一人親の子や両親を亡くし施設から通う子、障碍を持つ子、地元の子など、被爆地の事情を凝縮したような子どもたちが、通ったものでした。「いっしょうけんめい きょうまで生きてきたと!ーファミネット」に書いています。
どん底の家庭環境の頃にも、この小さな小学校は、子どもたちの心の拠りどころでしたが、今もその温かさは変わっていませんでした。