「いっしょうけんめいきょうまで生きてきたと!」

手記「いっしょうけんめい きょうまで生きてきたと!」が、いろいろな展開を見せています。手記を集める時は、複雑な心境を考えて、なかなか難しいものがありました。
向陽寮の元寮生の方々は、私たちのように同級生、同郷人として、繋がりはなかったようです。それぞれの事情を抱え孤独に生きてきた人が多いと感じました。私が取材した人たちは孤独でもたくましく前向きに、物事に取り組んできた人ばかりで、今は幸せな人生があります。しかし、取材中、「いっしょに食事でも、、」と呼びかけても集まりはよくありませんでした。お互いに過酷な過去を今更慰めあってもという思いもあったのでしょうか?
 ところが、この本が出版された後は、編者が驚くことが続いています。心に鬱積していたものが整理されたのかもしれませんが、先ず、自分たちのこれまでの人生が、「平和」へのメッセージとして役に立つなら、ぜひ利用してほしい、そのための活動ならやっていこうという積極的な考え方をする人がでてきました。
 先ずは8月3日、筑西市での朗読劇「あの夏の日の記憶」で、YKさんの手記が披露されることになりました。当然、本人の承諾をとってあります。録音して、その様子を知らせようと思っていました。ところが、当日本人が会場に来てくれるというのです。一番表に出たくなくて、イニシャルで手記を書いた人です。どういう心境の変化なのでしょう。会場で会えるのが楽しみです。
 また、この本がきっかけで、この夏小学校の同窓会が開かれることになりました。同窓会には元寮生は出席しないのがいつものことですが、今度は、寮生だった容子さんを囲んで、長崎で同窓会が開かれます。彼女にとって、55年ぶりの再会です。他の同級生も含めて、「お互いよく頑張ったね!」と乾杯したいと思っています。
 もう一つハプニングがありました。この向陽寮は長崎市にありますが、原爆孤児だけでなく、全国から親を亡くした子どもたちを集めました。この度は意識して原爆孤児は取材しませんでした。
長崎を出て、原爆の問題ばかり追う私の耳に「戦争は原爆ばかりではない。苦しんだのはみな同じ。」と言う声が聞こえていて、いつか原爆以外のことをとりあげ、あの戦争を多角的な視点で残したいと思っていたのです。ところが、この中の手記に被爆者手帳を持っていても当然の様子が書かれていて、あれから63年にしてHさんは、申請をすることになりました。このことについて誰も教えてくれず、ひたすら頑張って生きてきたのです。
この本はいわゆる書店の流通ルートにはのっていません。理由はこの手のものは売れないこと、ミゼラブルなケースを取り上げていないということで、正式出版にはなりませんでした。が、今、どんな形にしても、出していてよかったと、思い始めています。