YKさん、早すぎます!

 先月末、「YKさんが亡くなりました」という電話がありました。橋本画伯の個展がうまくいってほっとしていた時でした。「嘘でしょう!」と一言言ったきり、何も言葉が出てきませんでした。
彼は、「いしょうけんめい きょうまで生きてきたと!」に一大決心の末、手記を寄せてくれた人です。でも本名で書くことは拒否しました。家族に迷惑がかかるかもしれないという懸念があったからです。
あの戦争で、「犠牲になったのは原爆ばかりじゃない!」長崎を離れて生きる私にとって、気になることばです。確かに、原爆はその瞬間だけでなく、生き残った者が死ぬまで、肉体的精神的に死の恐怖をもたらす特別の兵器であるけれど、それだけが、あの戦争が残した傷跡ではありません。「そうだあの時、孤児院(のちに養護施設ー向陽寮)から通っていた小学校時代の同級生はどうしたのだろう」という疑問と、原爆ばかりという批判への小さな一歩として、あの手記の出版に繋がりました。
 YKさんが、6歳で向陽寮に預けられ、寮の近くを通る列車を毎日見て「あれに、父さんが乗っていて迎えに来る」と待ちつくした話は、胸に迫るものがあります。人前に出たくなかったはずの彼が、筑西市の大きな朗読会では、舞台に立ち、「今は親が子を、子が親を殺める時代、大切な親子の絆をとりもどしてほしい」と呼びかけたのが、公の場での初めての呼びかけであり、遺言になってしまいました。
幼くて、自ら食するものを調達せざるを得なかった、厳しい体験を持つ人の重いメッセージでした。
心からご冥福を祈ります。