銀座で、昔の仲間と再会

 先週、長崎から小学校の同級生が上京し、それに託けて、小学校の同級生が5人銀座で小さな同窓会を開きました。

長崎の郊外にあって、各学年2クラスしかない小さな小学校でした。学校の前には川が流れ周囲は田んぼや畑ばかりで、地元の農家の子どもが多く、秋になって米の収穫を終えた田んぼは、子どもたちのかっこうの遊び場でした。

50数年後、まさかお江戸の銀座で会うなど、誰も予想していませんでした。東京に住む当時の小学校の恩師が、連絡を取ってくださり、卒業以来初めて会う人も2人いました。恩師は体調が悪く、残念ながら出席はかないませんでした。

 先ず、元気で再会できたことに乾杯!
5人中、3人は拙著「いしょうけんめい きょうまで生きてきたと!」が縁で2年前長崎で再会を果たしていました。

あっという間に昔の仲間に戻り、当時の話で盛り上がりました。
話はやっぱり原爆やその後のことに及びました。

「お母さんが残った方がよかよ。ほんとに。」と5年生から転校していったAさんが、母親を亡くしてからの苦労をしみじみ私に。

「小学生から、かまどで煮焚きばして、学校に通ったとさ」被爆後病床に就くことが多かったお母さんの看病をしたYさん。

「うちのお兄ちゃんも原爆で死んだとさ」というIさんは56年ぶり。

「従姉妹のKちゃんが中国で孤児になって、うちの家族と帰国してきたのだけど、やはり心は癒えず、、、」戦後中国から引き揚げてきたNさん。

これまで、封印していたことも、年齢のせいか開示し始め、みんな
大なり小なりそれぞれの苦労を感じるひと時でした。

あんなに牧歌的で小さな小学校にも、さまざまな事情を抱えた子どもたちがいたことに、改めて驚きました。