戦災孤児になったのは、誰の所為!

 8月3日、筑西市の明野公民館イル・ブリランテで、はらんきょう(植物の名)の会の「あの夏の日の記憶」と題して、朗読劇が上演されました。もう11年目の公演ですが、今年は、「はらんきょうの会」独自のシナリオでした。長崎、広島の悲劇を広く伝え、平和な社会をという目的で、毎年多くの人に感動を与えています。
 今年は、長崎に昭和23年に戦災孤児収容所として開設された「向陽寮」で幼い頃過ごしたY.Kさんの手記が取り上げられました。
4、5歳で預けられたこどもたちが、親の迎えを期待して寮から見える蒸気機関車を見つめる心境が、短い会話で綴られていて、聴く人たちの心を動かしました。
 たびたび書きましたが「いしょうけんめい きょうまで生きてきたと!」の中から、取り上げてもらった作品です。Yさんは、結局イニシャルでしか、手記を書きませんでした。
Yさんは、当時日本全国にあふれた浮浪児生活の体験者で、幼い頃から「小さな命を自分で守ること」で精一杯の日々を送ったのです。寮の生活は、恵まれたものでしたが、寮を出てから、またまた世間の差別に苦労しました。ですから、表に出て何かを主張するようなことは
絶対にやりたくない気持ちはよく分かっていました。
 3日の朗読劇も録音でもして、送るつもりでした。ところが、本人が遠いところをものともせず、会場に駆けつけ、舞台であいさつまでしたのです。本の表紙に戦災孤児ということばを
極力避けてタイトルをつけた編者としては、Yさんの変わりように驚きました。
戦争で一人ぼっちになって、ものごとがうまくいかなければ、自分を責める寮生、
「いったい、戦争孤児になったのは、誰の所為」と、開き直ってもいいのではと思ったりもします。しかし、手記を書いたことで、Yさんには、何か変化が起きているように思います。